悔いのない時間を過ごすために。

身近な人が病気になりました。

身体のあちこちに問題があると知り、
これまでの生活を振り返り、
気を落としている様子に、少し驚きました。

あれほど「自分は大丈夫だ」と言っていた人が、
ふと立ち止まる。

けれど、きっとそれは特別なことではなく、
自分の身に起きれば、私も同じように
揺れるのだと思います。


私は易経を学ぶ中で、
人にも自然にも「流れ」があることを知りました。

栄えるときがあり、
衰えるときがある。

それは避けられるものではなく、
ただ巡っていくものです。


私は40代になり、
10代や20代のような鋭さが亡くなりました。
30代のような無理もきかない。

少しずつ、
変化の中にいることを実感しています。


もし仮に、
先端医療によって120歳まで生きられたとしても、

今と同じ感覚のままで
生きていけるわけではありません。

そう考えると、
本来の寿命を80年とすれば、
すでに折り返し地点にいることになります。


これまでの生き方が、
これからをつくっていく。

当たり前のことですが、
どこかで先送りにしてしまいがちなことでもあります。


どれだけ歴史の中で権力を持った人も、
不老不死を望んだ人も、
その願いを叶えることはできませんでした。

人は、必ず終わりを迎えます。


一休宗純の「死にとうない」という言葉。

その響きの中にあるものを、
いまになって、少し考えるようになりました。


夏の夕暮れ。

蝉の声がやわらぎ、
蜻蛉が静かに飛ぶ。

その景色に、
季節の終わりと、次の始まりを感じます。

この流れを、
巻き戻すことはできません。


ただ、その中で
気づくことがある。


かつて恩師が、
「鍼灸は禅だ」と言っていました。

その言葉の意味を、
20年経った今、ようやく少しだけ理解できる気がします。


鍼は、
痛みや苦しみを一時的に和らげることもできるし、
日常の中に静かな余白をつくることもできる。

それは、
「いま」を丁寧に生きるための
ひとつの手段なのかもしれません。


ある言葉があります。

人は生まれたとき、
自分は泣き、周りは笑っている。

だからこそ、
最期のときは、自分が静かに笑い、
周りがその別れを惜しむように。


その言葉のように、

自分も、
周りの人も、
どこか穏やかに、笑って別れられるような

そんな時間を、重ねていきたいと思います。


悔いのない時間を過ごすために。

過去の記録と、いまの思考。

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