砂時計のことを考えていて、ふと思った。
時間は、過去から未来へ流れているのではなく、未来のほうからこちらへ向かってきているのではないか。
砂は上から下へ落ちていく。
まだ触れることのできない上の砂が、少しずつこちら側へ降りてくる。
そして落ちた瞬間、それは「いま」になる。
さらに積もった砂は、もう過去になっている。
私たちは、過去の積み重ねが今をつくっていると思っている。
そして、この先の未来は、その続きにあるのだと考えている。
昨日の続きとして今日があり、今日の続きとして明日がある。
だから、過去が重ければ、未来も重く感じる。
これまでうまくいかなかったなら、この先もうまくいかないのではないかと思ってしまう。
けれど、本当に未来は過去の続きなのだろうか。
そんなことを考えていた時、和時計のことを思い出した。
和時計と西洋時計は異なる。
私たちがいま使っているのは、西洋時計の時間である。
一日を均等に二十四分割し、一時間は誰にとっても同じ一時間として扱われる。
けれど、かつて日本には、不定時法という時間の感覚があった。
昼と夜をそれぞれ六つに分ける。
だから、夏の昼の一刻は長く、冬の昼の一刻は短い。
時間は、いつも同じ長さではなかった。
太陽の動き、季節の移ろい、暮らしのリズムに合わせて、伸びたり縮んだりしていた。
大きな転換点は、明治6年、1873年だった。
太陰太陽暦から太陽暦へと改暦され、時間の数え方も変わっていった。
自然とともにあった時間から、均一に刻まれる時間へ。
もちろん、それによって社会は便利になった。
約束も、仕事も、移動も、管理もしやすくなった。
けれど一方で、私たちはいつの間にか、時間を数字として考えるようになったのかもしれない。
年齢。
締切。
予定。
効率。
成果。
期限。
その中で、人生もまた、過去から未来へ一直線に進むものとして考えるようになった。
過去の積み重ねが今であり、この先はその延長である。
そう思えば思うほど、人は過去に縛られる。
ある時、クライアントと話していた時のこと。
「自分が何をしたら良いか分からない」
そう言われた。
もちろん、私も分からない。
その人が何をしたら良いのか。
どこに向かえば正解なのか。
そんなことは、私が決められるものではない。
ただ、その時にふと思い出した言葉があった。
サッカー日本代表の森保一監督が、印象深いことを言っていた。
「高い目標を設定しないとモチベーションは上がらないし、成長につながらない」
この言葉は、単なる根性論ではないと思った。
例えば、ワールドカップで優勝するというのは、決して簡単なことではない。
ただ勝ちたいと思うだけで、優勝できるわけではない。
気合いや願望だけで届く場所ではない。
けれど、もし本気で優勝している姿を想像したとしたら、今見えている景色は変わる。
何が足りないのか。
どんな準備が必要なのか。
どの基準で日々を過ごすべきなのか。
誰と組むべきなのか。
何を捨てるべきなのか。
「今の自分たちに何ができるか」だけで考えていた時には見えなかった問題解決の糸口が、未来の側から今を見た時に、少しずつ見えてくる。
これは、身体のことにも似ている。
病気になりたくない人は多い。
けれど、病気にならないための行動をしているだろうか。
疲れを放置し、睡眠を削り、食事を乱し、ストレスを抱えたまま、ただ「病気になりたくない」と願っているだけになっていないだろうか。
もちろん、その背景には様々な事情がある。
仕事がある。
家庭がある。
責任がある。
簡単には変えられない現実がある。
だから、誰かを責めたいわけではない。
ただ、クライアントとのコミュニケーションの中で、ふと気づくことがある。
人は、なりたい未来よりも、避けたい過去や不安のほうを見て生きていることが多いのではないか。
病気になりたくない。
失敗したくない。
嫌われたくない。
損をしたくない。
もう傷つきたくない。
そうやって、後ろを気にしながら前に進もうとしている。
けれど、後ろを向いたまま前に進むのは難しい。
どれだけ前に進みたいと思っていても、見ている方向が後ろなら、身体はこわばる。
足取りは重くなる。
選択は守りに入る。
未来は、過去の延長にしか見えなくなる。
では、なぜ私たちは、後ろ向きな考え方が当たり前になってしまったのだろう。
その理由のひとつに、時間の捉え方があるのかもしれない。
私たちは、過去の積み重ねが今だと思っている。
そして、この先の未来は、その続きだと思っている。
過去にうまくいかなかったから、これからもうまくいかない。
今できていないから、未来もできない。
これまで変われなかったから、この先も変われない。
そうやって、過去が未来を決めているように感じてしまう。
けれど、砂時計を見ていると、少し違う感覚が生まれる。
未来は、まだ形になっていないものとして、静かにこちらへ向かってくる。
それが目の前に現れた瞬間、「いま」になる。
そして積もったものが、過去になる。
もしそうだとしたら、今は過去の結果であるだけではない。
未来から届いたものでもある。
少し変な話に聞こえるかもしれない。
けれど、未来は決まっているのかもしれない。
もちろん、ハッピーエンドに。
それは、何もしなくても都合よく救われるという意味ではない。
未来がすべてを勝手に整えてくれるという話でもない。
ただ、自分が本来向かうべき未来がある。
その未来の側に立って今を見ると、選ぶべき行動が変わってくる。
病気になりたくないのなら、病気にならない未来から今を見る。
元気でいたいのなら、元気でいる未来から今日の身体を見る。
豊かに生きたいのなら、豊かに生きている未来から今の選択を見る。
誰かに振り回されずに生きたくないのなら、静かに自分の軸で立っている未来から、今の人間関係を見る。
未来から今を見ると、問いが変わる。
「どうせ無理だ」ではなく、
「その未来に向かうために、今日は何を整えるか」になる。
「何をしたら良いか分からない」ではなく、
「その未来の自分なら、今ここで何を選ぶか」になる。
後ろを向いて前に進むよりも、前を向いて前に進む方がいい。
それは当たり前のことのようでいて、私たちは意外と忘れている。
過去に縛られなくていい。
失敗に縛られなくていい。
これまでの自分の延長だけで、未来を決めなくていい。
未来は、こちらへ向かってくる。
だから、その未来を迎えにいくように、今日を生きればいい。
自分にとってのハッピーエンドを先に置いて、そこから今を見ればいい。
時間は、過去から未来へ流れているだけではない。
未来から今へ、静かに降りてきている。
だから私たちは、過去の延長ではなく、未来の側から歩き出してもいいのだと思う。

