長く通っている人でも、鍼灸について質問することがある。
「鍼って、どうして効くんですか」
「身体の中で、何が起きているんですか」
実際に楽になることは知っている。
眠れるようになったり、呼吸が深くなったり、痛みが軽くなったりする。
それでも、なぜそうなるのかは、よくわからない。
説明しようと思えば、いくらでも難しく言える。
鍼の刺激が感覚神経に伝わり、脳や脊髄、自律神経を介して、血流や筋肉の緊張、免疫や炎症反応に影響を与える。
さらに難しく言えば、迷走神経を介した抗炎症反射や、神経と免疫の相互作用という話になる。
そう説明すれば、専門的に聞こえる。
けれど、身体の中で起きていることは、もっと自然だ。
身体に刺激が入る。
神経がそれを受け取る。
過剰になっていた反応が静まる。
ただ、それだけのことなのだと思う。
鍼をしたあとに、呼吸が深くなる。
お腹が動く。
身体が温かくなる。
眠くなる。
過剰になっていた炎症が鎮まり、緊張していた筋肉が緩んでいく。
長く治療をしていれば、毎日のように目にする反応である。
いまとなっては、鍼を刺すこと自体は大したことではない。
決めたところに、必要な刺激を入れる。
私がしているのは、それだけである。
それでも私は、日々、身体に驚かされる。
ほんのわずかな刺激を受け取り、自分の中で反応を起こす。
守るべきところを守り、鎮めるべきものを鎮め、戻ろうとする。
鍼がすごいというより、生命体というものはすごいのだ。
昔の人は、神経やサイトカインという言葉を知らなかった。
それでも、身体のどこに触れれば、どのような反応が起きるのかを知っていた。
顔色を見て、声を聞き、脈に触れ、身体の緊張を感じる。
難しい理論が先にあったわけではない。
人と身体をよく見ていた。
観察が先にあり、言葉は後から生まれた。
人間のことも同じだと思う。
相手が何を求めているのか。
どこで叱り、どこで励ますのか。
最後に、どのような言葉を渡せば、安心して帰れるのか。
昔なら、そういうことが自然にできる人が、町や村に一人くらいはいたのかもしれない。
人をよく見ていたからだ。
けれど、当たり前の感覚が失われると、自然にできていたことが特別な能力に見えてくる。
それを体系化し、名前をつけ、難しい言葉で説明する。
すると、その人は「先生」と呼ばれる。
鍼灸にも、同じようなところがある。
ある一定の人は、治療を意味ありげに見せたがる。
鉄板焼でブランデーをかけ、炎を上げるときのように。
大きな所作をつくり、間を取り、特別な技法の名前を使う。
目の前で炎が上がれば、何かすごいことが起きているように見える。
けれど、その一瞬の炎が料理をつくっているわけではない。
本当に料理をつくっているのは、素材と熱と、そこに積み重ねられた仕事である。
鍼も同じだ。
派手な所作や難しい説明が、身体を治しているわけではない。
鍼灸師が治しているわけでもない。
鍼灸師は、小さな刺激を身体に渡している。
あとは、身体が受け取り、自ら反応している。
現代医学は、迷走神経や免疫、炎症という言葉で、その仕組みを少しずつ説明し始めた。
けれど、身体の中では、ずっと昔から起きていた。
鍼が急に効くようになったわけではない。
科学が、身体の自然に名前をつけ始めただけである。
難しく言えば、学問になる。
さらに難しく言えば、権威になる。
そして人は、「先生、先生」と呼び始める。
けれど、本当は何も難しくない。
身体に刺激が入り、神経が受け取り、過剰な炎症が静まっていく。
ただ、それだけのことだ。
いまとなっては、大したことではない。
けれど、身体はすごい。
そのことに、私は今でも日々驚いている。

