ある動画を観ていたときの話。
タイトルは【不透明な会話】というらしい。
その中で、こんなやり取りがあった。
「青は進めだな。赤は止まれだ」
「赤だから止まれではなく、赤の時は危ないから止まる」
「青だから進むのではなく、青でも危なければ進んではいけない」
さらに、
「路上駐車をしないのは、駐禁のマークがあるからじゃない。迷惑だからだ」
「酒を飲んで運転しないのは、検問をやっているからではない。危ないからだ」
「ルールを守るということは、その言葉の表面にだけ従うという意味ではない」
「大事なのは、そのルールが持っている意味を理解すること」
そのセリフに思わず笑ってしまった。
とても分かりやすい。
たとえば、レストランで子どもが騒いでいたとする。
そのとき、
「怒られちゃうよ」
と言う。
悪いことをしたときには、
「捕まっちゃうよ」
と言う。
言っていることは分かる。
けれど、どこか違う。
怒られるからやめるのか。
捕まるからやめるのか。
本当は、誰かの迷惑になるからやめるのであり、誰かを傷つけるからやめるのではないだろうか。
ずっと、そんなことを思っていた。
鍼もそうだ。
「鍼は痛いですか?」
と聞かれれば、鍼灸師としては「痛くないですよ」と答えたくなる。
けれど、鍼は痛い。
皮膚に鍼を刺すのだから、何も感じないとは言えない。
できることなら、やらないに越したことはない。
ただ、痛くなる前に身体に手を当てていたなら、悪いのは鍼ではないのだと思う。
それでも長いあいだ、鍼や灸は「痛いもの」「熱いもの」として悪者にされてきた。
そして、良くならなければ鍼灸師のせいになる。
これは医療に限った話ではない。
世の中が悪ければ政治家のせい。
景気が悪ければ誰かのせい。
人間関係がうまくいかなければ、あいつのせい。
もちろん、責任を負うべき人はいる。
けれど、本当にすべてが「あいつのせい」で終わるのだろうか。
政治家を選んだのは私たちでもある。
相手との関係を続けているのも私たちである。
自分の選択がまったく関わっていない出来事など、案外少ない。
東洋哲学では、こういうことを日常的に考える。
雨は憂うつだ。
しかし、その雨が大地を潤す。
「あいつのせいで、こんな目に遭った」
そう思うこともある。
けれど、
「あいつがいたから、自分の何かに気づいた」
という見方もできる。
西洋的な合理性で考えれば、問題があればそれを特定し、排除すればよい。
悪いものがあれば取り除く。
害になるものがあれば遠ざける。
それはとても分かりやすい。
しかし、それですべてがうまくいくのだろうか。
問題を取り除いたあとに、恨みが残る。
憎しみが残る。
怒りが残る。
すると今度は、それらが新しい問題になる。
排除することで問題は消えたように見えても、関係そのものは自分の中に残っている。
病気も同じだと思う。
病気は自分の外側からやってきた敵ではない。
少なくとも、自分の身体の中で起きている。
だから、ただ対立して、やっつければいいというものでもない。
私はスピリチュアルな話をしたいわけではない。
ただ、人の病気を長くみていると、こういうことが当たり前のように繰り返されていることに気づく。
先日、温泉に行ったときのこと。
母親が、七歳くらいの男の子を叱責していた。
そして五歳ほどの娘には、
「あなたは信用できない」
と注意していた。
まだ五歳ほどの子にだ。
男の子は正座をしてカレーライスを食べていた。
母親は、
「もっと机に近づかないとこぼす」
と言う。
けれど、その子にとって正座をしたまま姿勢よく食べること自体が難しそうに見えた。
日頃から正座や姿勢を注意されているのかもしれない。
ただ、いつもの机よりも低いのか、食べにくそうに見えた。
そして案の定、カレーをこぼした。
母親はさらに怒った。
私は、その母親がどんな躾を受けてきたのだろうと思った。
そして、隣で萎縮して何も言わない夫を見ながら、この家族の中で何が繰り返されているのだろうと想像した。
もちろん、母親に、
「そんなに怒ってはいけません」
と伝えたところで、理解は得られないだろう。
本人にとっては、怒っているのではない。
「正しいことをしている」のだから。
食事はきちんと食べるべき。
こぼしてはいけない。
子どもはちゃんと躾けるべき。
どれも間違ってはいない。
けれど、正しいことをしていると同時に、何かを失っていることにも気づかなければならない。
子どもたちの可能性かもしれない。
失敗しても大丈夫だと思える安心感かもしれない。
家族でカレーを食べる、ただ楽しいはずだった団らんの時間かもしれない。
だからといって、怒りを我慢しろという話ではない。
感情を抑え込めばいいということでもない。
むしろ考えたいのは、
「この抑えられない感情は何なのだろう」
ということだ。
なぜ、子どもがカレーをこぼしただけで、これほど腹が立つのか。
なぜ、五歳の子どもに「信用できない」という言葉が出てくるのか。
自分が幼い頃に許されなかったことを、目の前の子どもがしているからかもしれない。
ちゃんとしていなければ認めてもらえなかったのかもしれない。
失敗することを怖れて育ったのかもしれない。
答えは本人にしか分からない。
ただ一つ逃れられないのは、自分では抑えられない何かによって、目の前の人を傷つけているという事実だ。
人は、指摘されたから変わるわけではない。
自分で気づかない限り、同じことを繰り返す。
怒られたからやめる。
捕まるからやめる。
病気になったから生活を変える。
それでは、赤信号だから止まるのとあまり変わらない。
本当に必要なのは、その意味に気づくことなのだと思う。
なぜ私は怒っているのか。
なぜ私はこう生きているのか。
なぜ身体はこうなったのか。
病気は、ただ治すためにあるのではない。
少なくとも私は、そう思っている。
病気をきっかけに、自分の身体や生活に何が起きているのかを見る。
そこで初めて気づくことがある。
赤だから止まるのではない。
危ないから止まる。
怒ってはいけないから怒らないのではない。
その怒りが何から生まれ、何を壊しているのかに気づく。
病気だから治すのではない。
その病気を通して、自分の中で何が起きているのかを見る。
人は、正しくなることで変わるのではない。
気づくことで、少しずつ変わっていくのだと思う。
でもね。
病気にはならない方がよい。
そんなに急いで生きなくてよい。
限られた時間をただただ大切にして欲しい。

