自分に許せるか

私は、無責任な人が嫌いである。

約束したことを投げ出す人。
自分の言葉に責任を持たない人。
都合が悪くなると、誰かのせいにしてその場から離れる人。

そういう姿を見ると、強い違和感を覚える。

けれど、責任というものは、見る角度によって意味が変わる。

相手から見れば、期待に応えることが責任になる。

社会から見れば、与えられた役割を果たすことが責任になる。

結果から見れば、起きたことを引き受けることが責任になる。

そして自分から見れば、自分の選択に対して逃げないことが責任になる。

同じ行動であっても、どこから見るかによって、責任にも無責任にも見える。

たとえば、誰かの依頼を断る。

依頼した側から見れば、無責任に映るかもしれない。

けれど、自分の能力や時間、身体の状態を考えたうえで断るのであれば、それは自分に対して責任を持った判断ともいえる。

反対に、相手の期待に応え続け、周囲からは責任感のある人だと思われていたとしても、自分を壊すまで引き受け続けるのであれば、それは自分の人生に対して無責任なのかもしれない。

だから私は、責任を他人の評価だけで考えたくない。

他人から正しい人だと思われること。

無責任だと批判されないこと。

期待を裏切らないこと。

そうしたものを基準にすると、責任は外側から与えられる義務になる。

けれど、私にとって大切なのは、自分に責任を持つことである。

私は何を選ぶのか。

なぜ、それを選ぶのか。

その結果を、自分で引き受けられるのか。

最後に問うのは、他人からどう見られるかではない。

その選択をした自分を、自分が許せるかどうかである。

誰にも知られなかったとしても、見て見ぬふりをした自分を許せるだろうか。

都合が悪くなった途端に逃げた自分と、その後も生きていけるだろうか。

自分が言ったことを、自分でなかったことにするような生き方を選べるだろうか。

おそらく、私にはできない。

武士道における「義」も、他人から褒められるためのものではないのだと思う。

誰かが見ているから正しく振る舞うのではない。

誰かに認められるために筋を通すのでもない。

自分が正しいと考えた筋を、自分の責任で選び、その結果まで引き受ける。

それが義なのだと思う。

もちろん、他人の目をまったく気にしないわけではない。

人から無責任だと思われたくない。

期待を裏切りたくない。

相手を失望させたくない。

そういう気持ちはある。

けれど、最後の判断を他人に委ねたいわけではない。

他人の価値観を必要としないということは、他人の意見を聞かないということではない。

社会を否定することでも、人との関係を拒絶することでもない。

相手の意見は聞く。

自分の行動が周囲に与える影響も考える。

社会のルールや、その場における役割も理解する。

けれど、最後の判断まで他人に明け渡すことはしない。

他人の価値観を拒絶するのではなく、他人の価値観を自分の基準にしない。

そこには大きな違いがある。

周囲から求められたことを、すべて同調圧力と呼んで切り捨てるのも違うと思う。

自分にとって不都合な意見や、果たすべき責任まで、外側からの圧力として処理することはできる。

「社会に従わされた」

「周囲に求められた」

「同調圧力に負けた」

そう言えば、自分が選んだという事実から逃げることができる。

けれど、自分に責任を持つということは、従うにしても、断るにしても、自分が選んだと認めることである。

従うと決めたなら、それは自分の選択である。

断ると決めたなら、その結果も自分で引き受ける。

他人がどう考えるかは、他人の領域にある。

自分が責任を持てるのは、自分が何を選び、何を引き受け、何を断り、その選択をどう生きるかという部分だけである。

ただし、自分に責任を持つことと、何もかも自分で背負うことは同じではない。

無責任な人がいると、その人が果たさなかった責任まで、自分が埋めようとしてしまうことがある。

相手が放置した仕事を引き受ける。

相手が考えなかったことまで考える。

相手が向き合わなかった問題まで、自分が処理しようとする。

そうしなければ、全体が崩れてしまうように感じるからである。

けれど、それを続けていると、自分の責任と他人の責任の境目が分からなくなる。

そしていつか、

「なぜ自分ばかりが背負わなければならないのか」

という怒りに変わる。

責任感が、自己犠牲になる。

本当の責任とは、すべてを背負うことではない。

自分が背負うべきものを引き受け、背負うべきでないものを相手に返すことでもある。

これは、私が果たすべき責任なのか。

それとも、誰かが果たさなかった責任を、私が代わりに背負おうとしているだけなのか。

その境界を見極める必要がある。

そして、自分の感情やこだわりを、安易に「義」と呼ばないことも大切なのだと思う。

自分が正しいと思っているだけで、本当は相手を支配しようとしていることもある。

正しさを掲げながら、自分の思い通りにしたいだけのこともある。

だから、自分自身にも問い続けなければならない。

それは本当に筋が通っているのか。

自分に都合がよいだけではないか。

立場が逆でも、同じことを正しいと言えるだろうか。

誰にも評価されなくても、その選択をするだろうか。

その結果として不利益を受けても、引き受けられるだろうか。

そこまで考えたうえで、それでも自分が選ぶもの。

それが、私にとっての責任であり、義なのだと思う。

責任とは、他人に認めてもらうために果たすものではない。

自分の人生の決定権を、他人に明け渡さないために引き受けるものなのだと思う。

私は私の選択に責任を持つ。

けれど、他人の感情や評価まで、自分の責任にはしない。

他人の価値観は聞く。

社会との関係も考える。

しかし、最後に決めるのは自分である。

そして、その選択をした自分から逃げない。

自分に責任を持つとは、自由に生きることではない。

自分で選び、その結果まで含めて引き受けることなのだと思う。

過去の記録と、いまの思考。

それぞれ別の場所に残しています。

note(記録)
Threads(思考)
Instagram

活動はFacebookに。

必要な時にのぞいてみてください。

目次