樹のように、そこにいる

中学生の娘が、夏休み明けの学校に行きたくなさそうだ。

妻に聞くと、

「学校で、どのような自分だったかを忘れてしまったんじゃない?」

と言った。

その言葉が、妙に残った。

夏休みのあいだ学校から離れ、家で過ごしているうちに、学校にいたときの自分がわからなくなったのだという。

友達といるときの自分。

教室にいるときの自分。

先生と話すときの自分。

どんな顔をして、どんな言葉を使い、どんなふうにその場所にいたのか。

13歳は、少しずつ大人に向かっているのかもしれない。

毎日一緒にいると、その変化はわからないものだ。

昨日と今日では、それほど変わって見えない。

けれど本人の中では、自分でも説明できない何かが、少しずつ変わっているのだろう。

人は、何かを演じながら成長していくのかもしれない。

学校では学校の自分。

家では家の自分。

友達の前では友達の前の自分。

それは、本当の自分を偽るということではない。

いろいろな場所で、いろいろな自分を経験しながら、自分というものの輪郭を知っていく。

ただ、そのことが辛い人もいる。

周囲に合わせること。

期待されている自分でいること。

その場所にふさわしい表情をして、言葉を選び、振る舞うこと。

自然にできる人もいれば、とても疲れる人もいる。

それは、子どもだけではない。

大人も同じだ。

仕事での自分。

家庭での自分。

親としての自分。

夫や妻としての自分。

気がつけば、私たちは一日の多くを、何かの役割として生きている。

長く演じているうちに、どこまでが役割で、どこからが自分なのかわからなくなることもある。

娘にとって、この夏休みは一度その役を脱ぐ時間だったのかもしれない。

学校という場所から離れ、

そこでの自分からも離れた。

そして新学期を前にして、もう一度そこへ戻ろうとしたとき、

「私は、どんな自分だっただろう」

と戸惑っている。

本当のところは、娘にしかわからない。

もしかすると、娘自身にもまだわからないのかもしれない。

新学期が始まるまでの時間、娘とどのように関わるか。

そんなことを考えた。

話を聞いたほうがいいのか。

何か言葉をかけたほうがいいのか。

自分の経験を話したほうがいいのか。

けれど、そっと見守ることを選んだ。

「パパが中学生の頃はさ」

そんな言葉は、今の娘にはふさわしくない気がした。

私と娘では違う。

ましてや異性であり、世代も、時代も違うのだ。

私が中学生だった頃の経験を持ち出したところで、それは私の物語でしかない。

良かれと思って差し出した答えが、娘が自分で考えるための時間を奪ってしまうこともある。

親になると、つい何かをしてあげたくなる。

困っていれば助けたい。

迷っていれば、道を示したくなる。

自分が知っていることを、教えたくなる。

けれど、何もしないという関わり方もあるのだと思う。

待つということ。

本人が考える時間を奪わないこと。

言葉になるまで、急かさないこと。

自分で一歩を踏み出すまで、こちらから引っ張らないこと。

待つことは、何もしないこととは少し違う。

ただ、そこにいる。

それでいいのかもしれない。

子どもには、子どもの時間がある。

これから先、娘がどこへ向かい、何を考え、どんな自分になっていくのか。

私にはわからない。

わからないままでいいのだと思う。

ただ、

雨が降ったときには

雨宿りができる

そんな

いつもそこにある樹でありたい。

過去の記録と、いまの思考。

それぞれ別の場所に残しています。

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