これまで長く仕事を続けてきて、さまざまな人に出会った。
それ自体は、楽しいことだった。
売上数百億円、数十億円規模の会社を率いる会長もいれば、医師や弁護士、芸能人、ハリウッド俳優もいた。
だからといって、施術の際にやることが変わるわけではない。
相手の肩書によって、ツボの位置が変わるわけではないのだ。
特別な金額をいただくこともなければ、特別な対応をするわけでもない。
ただ、彼らが背負っている責任は違う。
静けさを求めているのか。
心を落ち着かせたいのか。
それとも、ほんのひとときの安らぎを求めているのか。
施術そのものを変えるのではなく、その人が背負っているものを想像しながら、関わり方を変えていく。
しかし、不思議なことに、大きな責任を背負っている人たちは、横柄な態度をとらない。
自分の立場を振りかざすこともなければ、特別扱いを求めることもない。
横柄さも、横暴さも、傲慢さも見せず、こちらの仕事を尊重し、静かに身体を預けてくれる。
他者の仕事が、どれほどの時間と積み重ねの上に成り立っているのかを知っているのだと思う。
そして、自分もまた、多くの人に支えられていることを知っているのだろう。
あるとき、恩師が言っていた。
「みんな、へそは一つ」
私は、彼らと同じ社会的地位にいるわけではない。
背負っている責任も、見ている景色も、社会に与える影響も違う。
だから、無理に対等だと思うこともない。
その違いは、違いとして認めている。
ただ、へそは一つだ。
どれほど大きな肩書を持っていても、身体を持ち、疲れ、傷つき、安らぎを求める一人の人間であることに変わりはない。
私もまた、技術者として自分の役割を果たす。
相手を必要以上に持ち上げることも、自分を卑下することもない。
立場は違う。
役割も違う。
それでも、身体に触れるその時間は、一人の人間と一人の人間が向き合う時間である。
ただ、その一方で、この関係を勘違いしている人もいる。
私は、サービスを施す人ではない。
もちろん、対価をいただく以上、心地よく過ごしてもらうための配慮はする。
しかし、それは相手の機嫌を取ることでも、要求に従うことでもない。
私は、積み重ねてきた知識と経験を使い、責任を持って身体に向き合う技術者である。
お金を支払う側が上で、提供する側が下であるかのように振る舞う人もいる。
客であることを、相手を従わせる権利のように考える人もいる。
人に対して敬意を持てない。
時間を守れない。
相手の仕事や都合を軽く扱う。
私は、そのような人とは関わりたくない。
横柄さや横暴さ、傲慢さがあるからといって、こちらの施術態度を変えることはない。
ツボの位置を変えることもなければ、手を抜くこともない。
それは技術者として当然のことである。
しかし、自分の身体を預けるということ。
場合によっては、自分の人生に関わる判断を相手に委ねるということ。
その相手に向けた横柄さや横暴さ、傲慢さが、関係性のなかで自分に返ってくるとは想像しないのだろうか。
これは、報復の話ではない。
人は、差し出された態度をまったく感じずにいられるほど、無機質ではない。
どれほど公平であろうとしても、そこに信頼があるか、敬意があるかによって、関わりの深さは変わる。
身体を預けるとは、ただ施術台に横になることではない。
技術者の知識や経験、判断、そして良心に身を委ねることでもある。
仮に神社や仏閣へ行くとき、サンダルやジーンズでは行かないという人もいるだろう。
服装そのものが問題なのではない。
その場所に対して、自分がどのような姿勢で向き合うかということだ。
ある一定の敬意があれば、人は自然と振る舞いを整える。
敬意とは、相手を上に置くことではない。
自分を低くすることでもない。
その場所や人が担っている役割を、軽んじないということだ。
もちろん、これは自分にもいえることである。
公共の場に対して。
施設に対して。
そして、人に対して。
私は敬意を持てているだろうか。
他者の仕事や時間を軽く扱ってはいないだろうか。
技術者として敬意を求めながら、自分は誰かの役割を尊重できているだろうか。
私は、相手が誰であろうと一定の距離をとる。
肩書によって近づくこともなければ、特別なことをすることもない。
すべての人に好かれたいわけでも、誰とでも関わりたいわけでもない。
互いに敬意を持つこと。
時間を守ること。
約束を軽んじないこと。
それは特別な礼儀ではなく、人と関わるうえでの最低限だと思っている。
みんな、へそは一つ。
人は皆、同じ立場にいるわけではない。
しかし、どれほど立場が違っても、人間であることまでは変わらない。
だからこそ、相手の肩書ではなく、その人の役割と人間性に向き合う。
そして私自身もまた、敬意を求める前に、まず敬意を差し出せる人間でありたいと思う。

