言葉を渡す

今朝、家の天井に見たことのない虫がいた。

背伸びをして捕まえようとすると、その虫には羽があった。

落ちると同時に、どこかへ飛んでいった。

床に座っていた息子が言った。

「それ、毒虫だよ」

一瞬、頭にきた。

子供の言うことだ。

ただ、その言葉は、どこか無責任にも思えた。

床に落ちた虫をティッシュで包み、外へ逃がそうとすると、息子はさらに言った。

「毒を噴射するかも」

危険を知らせてくれたつもりなのだろう。

けれど、自分は床に座ったまま、その場には関わらず、言葉だけをこちらへ渡す。

言った本人には何も残らなくても、受け取った私には不安が残る。

虫を外へ逃がしたあと、妻がスイカを持ってきた。

その場の空気を察したのだろう。

「二人で食べたら?」

そう言って、私と息子の前に置いた。

私は息子と向かい合い、少し話をした。

「あの虫には、毒があるかもしれない」

「でも、自分は床に座ったまま、言葉だけをこちらへ渡した」

「そうすると、パパには不安だけが残る」

目の前のスイカを見ながら、私は聞いた。

「カズは、スイカに塩をかけたい?」

好奇心旺盛な息子は、

「塩をかけると甘くなるんだよね。かけてみたい」

と答えた。

「では、塩をかけたらダメと言われたら、どんな気分?」

息子は黙った。

私は、果物に塩をかけて食べるのが好きではない。

ただ、その好みを子供に押しつけるつもりはない。

自分が好きではないことと、子供が試してはいけないことは、まったく別の話だからだ。

塩をかけたスイカを、おいしいと思うかもしれない。

やはり、何もかけないほうが好きだと気づくかもしれない。

その答えは、親が先回りして決めるものではない。

言葉は、何を伝えるかだけではなく、誰のために発せられたのかによって意味が変わる。

相手を思って伝える言葉もあれば、自分の不安を手放すために使われる言葉もある。

「何を言うか」が知性。
「何を言わないか」が品性。
「どう言うか」が人間性。

そんな言葉がある。

人を怒らせることや、悲しませることは簡単だ。

思ったことを、そのまま口にすればいい。

けれど、人を安心させたり、楽しませたりすることは難しい。

そこには、相手の表情を見て、気持ちを想像する必要があるからだ。

「カズ、あのとき、何と言ったらよかったのかね」

私は息子に聞いた。

「きっと学校でも、同じようなことがあると思うんだ」

悪気はなくても、知っていることを口にしただけでも、知らないうちに人を傷つけることがある。

だから、あのときに知っている豆知識を言うことが、知性なのではない。

知っていても、言わないことができる。

言うのなら、どう伝えるかを考えることもできる。

危険だと思うのなら、言葉だけを投げるのではなく、一緒に考えることもできる。

私は、滅多に子供に怒ることはない。

怒りという強い感情によって、子供が本来持っている能力を押さえつけてしまうと思っているからだ。

だから、息子にはこう言う。

「パパは怒っているのではなく、叱っているんだよ」

感情をぶつけたいわけではない。

言うことを聞かせたいわけでもない。

Aという行動を、Bの側面から見たときに、どのように映るのか。

その気づきを、心の引き出しにしまっておいてほしいのだ。

その場ですぐに理解できなくてもいい。

いつか似たような場面に出会ったとき、自分でその引き出しを開けて考えてくれたらいい。

最近、子供たちはYouTubeなどから、多くの言葉を一方向に受け取っている。

画面の向こうの人はこちらの表情を見ない。

こちらが不安になっても、傷ついても、話はそのまま進んでいく。

本来、会話とは、言葉を交わすことだけではない。

相手の顔を見て、反応を感じ、必要であれば言い直す。

黙ることもあれば、手を差し出すこともある。

けれど、一方向から言葉を受け取ることに慣れると、相手との関係よりも、発信することに重きが置かれる。

知っていることを言う。

思ったことを口にする。

しかし、その言葉を相手がどう受け取るかまでは考えない。

発信はあっても、コミュニケーションはない。

SNSを見ていても、同じことを思う。

東洋医学という枠組みから一方的に身体を語れば、そこには疑問が残る。

陰陽、五行、気血水。

それらは身体を理解するためのひとつの見方ではある。

けれど、すべてではない。

専門的な言葉を一方的に並べれば、語る側は知っている人になり、受け取る側は知らない人になる。

そうして、いつの間にかヒエラルキーが生まれる。

専門家が知識を語るときに必要なのは、相手を従わせることではない。

相手が自分の身体について考えられるように、言葉を置くことだと思う。

知識があることと、その知識をどう使うかは、別の話だ。

何を言うのか。

何を言わないのか。

そして、どう言うのか。

そこには、その人の知識だけではなく、人との関わり方そのものが表れる。

親が子供に渡すものも、正解ではないのだと思う。

自分で考えるための視点と、自由に試せる余白。

やってみたいことを、できるだけ全力でやる。

親の知らないものに触れ、親の見たことのない景色を見る。

そうやって子供は、いつか親を追い抜いていくのだろう。

それでいいのだと思う。

子供が親を越えていくことで、次の世代へ何かが受け渡されていく。

そうやって、バトンはつながっていく。

妻が切ってくれたスイカを、息子と食べながら、そんな話をした。

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