消費されない自分

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“自分らしさ”が流行になる時代に

中学生の頃から、古着が好きだった。

代々木公園のフリーマーケットに行き、原宿や下北沢、代官山にも足繁く通った。

今のように、スマートフォンで簡単に情報を集められる時代ではなかった。
雑誌を見て、街を歩いて、店に入り、自分の感覚だけを頼りに服を探していた。

あの頃の古着には、今とは違う空気があったように思う。

誰かと同じものを着たいのではなく、誰とも一緒ではない自分でいたかった。
流行に乗るというよりも、自分の輪郭を探していた。

誰かに説明するためではなく、自分の感覚に合うものを見つけたかったのだ。

古着屋に並んでいる服は、どれも一点もののように見えた。

サイズも、色落ちも、傷も、形も、すべてが少しずつ違う。
その中から、自分に合う一着を探す時間そのものが楽しかった。

それは、ただ服を買うことではなかった。

自分は何が好きなのか。
何に惹かれるのか。
何を着ると、自分の身体や気分に合うのか。
どうすれば、誰とも同じではない自分を表現できるのか。

そんなことを、言葉にする前に、服を通して考えていたのだと思う。

その頃、通っていた古着屋のひとつにDEPTがあった。

当時の自分にとって、DEPTはただ服を買う場所ではなかった。
そこには、古着が持つ時間や空気があり、どこか大人びた自由さがあった。

新品の服をきれいに着ることとは違う。
ブランドのロゴを身につけることとも違う。
誰かに用意された正解を選ぶことでもない。

そこにある服の中から、自分の感覚に引っかかるものを探す。

少し古びていても、少しクセがあっても、そこにしかない雰囲気がある。
その感覚が、とても楽しかった。

古着は、誰かが一度使ったものだった。

誰かの生活の中にあり、時間を経て、また別の誰かの手に渡る。
その循環の中に、自分も入っていくような感覚があった。

最近、そのDEPTのオーナーであるeriさんの記事を読んだ。

DEPTは、私が中学生の頃に通っていた店でもある。
その店の娘さんが、今、使い捨ての生活からの脱却や、古着の持つ意味を語っている。

そのことに、不思議なつながりを感じた。

自分がまだ何者でもなかった頃、ただ直感で通っていた店。
そこで感じていた空気や、古着に対する感覚。

それが時間を経て、今の時代に対する問いとして、別の形で語られている。

eriさんの言葉が響いたのは、単に古着の話だったからではない。

そこに、使い捨てられていく社会への違和感があったからだと思う。

新品を買い、飽きたら手放し、また新しいものを買う。
その繰り返しの中で、私たちはいつの間にか、ものを大切にする感覚を失っているのかもしれない。

古着には、時間がある。

誰かが着ていた時間。
時代の空気。
素材の変化。
傷や色落ち。
新品にはない余白。

それは、単なるファッションではなく、時間を受け取る行為でもある。

けれど、今の古着ブームを見ていると、そこにも少し違和感がある。

古着が良いから古着を着る、というよりも、古着が注目されているから古着を着る。
古着が自分らしさの象徴になっているから、それを選ぶ。

古着そのものもまた、トレンドになっている。

そこに、転売という市場も入ってくる。
希少性の高いものには高い金額がつけられ、「分かる人には分かる価値」として流通していく。

もちろん、希少性や価値づけそのものが悪いわけではない。
良いものが正当に評価されることは必要だと思う。

けれど、そこに市場の空気が強く入り込むと、服そのものよりも、
「希少であること」
「高額であること」
「人からどう見られるか」
が前に出てくる。

本来、古着は自分の感覚で選ぶものだったはずだ。

流行から少し外れた場所で、自分の身体に合うものを選び、自分の生活に馴染ませていく。
そこに個性があった。

けれど今は、個性さえも商品になる。

「自分らしさ」を求めて古着を着ているはずなのに、気づけば皆と同じ方向を向いている。
皆と違うはずの服を着ながら、皆と同じ安心を得ている。

それは、とても現代的なことなのだと思う。

人は皆と同じではいたくない。
でも、違いすぎるのも怖い。

個性的でありたい。
でも、孤立はしたくない。

自由でありたい。
でも、認められたい。

その心理の隙間に、トレンドは入り込む。

「これを選べば、自分らしくなれる」
「これを持てば、分かっている人に見える」
「これを身につければ、流されない人に見える」

そうやって、本来は内側から育つはずのものが、外側から選べるものとして提示される。

今の社会では、個性さえも商品になる。

服も、情報も、言葉も、思想も、美しさも、健康も、生き方も。
そして「自分らしさ」さえ、商品として売られていく。

でも、本当の自分らしさとは、買うものではないと思う。

自分がなぜそれを選ぶのか。
なぜ、それに惹かれるのか。
なぜ、そこに違和感を覚えるのか。
なぜ、皆と同じ方向を向くことに疲れるのか。

その問いの中にしか、自分軸はない。

同じ古着を着ていても、その理由によって意味は変わる。

誰かと同じものを着ていても、自分の軸で選んでいるなら、それは自分のものになる。
反対に、誰とも違うものを着ていても、他人の視線ばかりを意識しているなら、それは自分のものではない。

個性とは、見た目の違いではない。

どこから選んでいるか。
何を基準にしているか。
何に違和感を持ち、何を大切にしているか。

そこに、その人の軸が出る。

そして、この構造は医療にもあるのかもしれない。

本来、医療の中心にあるべきものは、患者の身体であり、生活であり、その人がどう回復していくかという過程である。

けれど、医療の世界にも、市場の空気や提供者側の欲望が入り込むことがある。

病院のブランド。
医師の権威。
治療者の技術。
最新機器。
高額な治療。
専門用語。
「私が治した」という物語。

もちろん、知識も技術も設備も必要だ。
経験も、専門性も、責任も必要だ。

けれど、それらは本来、患者のために使われるものであって、治療者自身の価値を証明するためのものではない。

「私は治せる」
「私の技術は特別だ」
「この治療法こそ正しい」
「私だから分かる」

そうしたものが前に出すぎると、患者は置き去りになる。

患者主体であるはずの医療が、気づかないうちに治療者主体になってしまう。

これは、古着屋が服そのものよりも希少性や価格を前に出しすぎる構造と似ているのかもしれない。

服が主役であるはずなのに、売り手の価値づけが前に出る。
患者が主役であるはずなのに、治療者の考えや技術が前に出る。

すると、本来そこにあったものが見えにくくなる。

古着であれば、服に残る時間や、着る人の感覚。
医療であれば、患者の身体の声や、その人の生活。

対象そのものではなく、それを扱う人間の欲望が中心になってしまう。

治療者が「治したい」と思うことすら、時に危うさを持つ。

その思いの中に、
「治せる自分でありたい」
「すごいと思われたい」
「選ばれる存在でいたい」
という欲が混ざることがあるからだ。

患者を診ているつもりで、実は自分を見ていないか。
身体を読んでいるつもりで、自分の理論を当てはめていないか。
回復を支えているつもりで、「治した自分」を確認していないか。

これは、治療者である自分自身にも向けておきたい問いである。

本来、治療者は主役ではない。

主役は、患者の身体である。
患者の生活である。
患者が自分の力を取り戻していく過程である。

治療者は、その流れを支える存在であって、前に出すぎるものではない。

医療とは、治療者の自己表現ではない。
患者の身体と人生に対する、深い敬意なのだと思う。

だからこそ、消費されない自分でいるためには、自分が消費されないことだけでは足りない。

自分もまた、誰かや何かを、自分の承認欲求のために消費していないか。
そこまで見なければいけない。

服を使って、自分を大きく見せていないか。
思想を使って、自分を特別に見せていないか。
患者の身体を、自分の技術や考えを証明するために使っていないか。
誰かの悩みや身体を、自分の物語の材料にしていないか。

ここを見ないまま「自分らしさ」を語ると、自分軸は簡単に自己顕示欲へと変わってしまう。

本当の自分軸とは、自己主張の強さではない。
周囲と違うことを証明することでもない。
自分を大きく見せることでもない。

自分の中心に立ちながら、対象への敬意を失わないことだと思う。

服なら、服を見ているか。
身体なら、身体を見ているか。
人なら、その人を見ているか。

そこから離れた瞬間に、どれほど美しい言葉を使っても、どれほど高い価値を掲げても、結局は消費の流れに飲み込まれていく。

中学生の頃、古着を探して街を歩いていた自分は、まだそんな言葉を持っていなかった。

けれど、誰とも一緒ではない服を探しながら、まだ言葉にならない自分らしさを探していたのだと思う。

そして今、eriさんの言葉に触れて、あの頃の感覚が別の形で戻ってきた。

使い捨てないこと。
流されないこと。
本来の価値を見失わないこと。
対象に敬意を持つこと。
自分の欲望を静かに見つめること。

それが、消費されない自分につながっていく。

消費の流れの中で生きながら、その流れに自分の中心までは渡さない。

同時に、他者の身体や感覚や人生を、自分の承認欲求の材料にしない。

流されないとは、ただ世の中に逆らうことではない。
自分の欲望にも、静かに目を向けることだ。

何かを選ぶとき。
何かを語るとき。
誰かに触れるとき。
仕事として価値を差し出すとき。

その中心に、自分の誇示ではなく、対象への敬意があるか。

そこを失わないこと。

消費されない自分でいるとは、外側の流れに飲み込まれず、内側の感覚を手放さないこと。

そして、自分の価値を証明するために、誰かを消費しないこと。

その静かな姿勢こそ、これからの時代に必要な自分軸なのだと思う。

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