治療をやめた日

ある研究結果から見えてきたことがある。

大きなストレスやトラウマは、心の中だけに残るのではない。

呼吸の浅さ、肩の緊張、顎のこわばり、背中の硬さ、姿勢の癖として、身体にも反応として現れることがある。

だから私は、「肩こりを治してください」と言われても、肩だけを弛めれば解決するとは思っていない。

もちろん、肩の緊張を取ることはできる。
一時的に楽にすることもできる。

けれど、その肩こりが、生活の癖、呼吸、姿勢、思考の緊張、我慢、あるいはその人の生き方の反映として現れているなら、肩だけを見ても本質には届かない。

だからといって、心理的な要因をこちらから深掘りしたいとも思わない。

それは本人の領域だからだ。

見たい人は、いずれ自分で見ようとする。
気づきたい人は、身体がゆるんだ時に自然と気づいていく。

施術者がすべきことは、原因を暴くことではない。

その人の身体に出ている反応を丁寧に読み、戻るための余白をつくることだと思う。

だから私は、治療という価値観で人を見ることを手放した。

やめたのだ。

肩こりを治す。
腰痛を治す。
不調を改善する。

もちろん、それらは入口として存在する。

けれど、人の身体に触れていると、症状だけを見ていては届かない場所がある。

その緊張は、ただの筋肉の硬さではないかもしれない。
その痛みは、ただの局所の問題ではないかもしれない。
その不調は、その人の生活、思考、我慢、生き方が、身体を通して表れているものかもしれない。

だから私は、原因を暴こうとは思わない。
心理を深掘りしようとも思わない。

それは本人の領域だからだ。

私ができるのは、その人の身体に出ている反応を丁寧に読み、戻るための余白をつくること。

治すのではなく、戻る。
変えるのではなく、ほどける。
正すのではなく、本来の流れに近づいていく。

そのために私は、リラックスするための時間を創作することにした。

ただ休むだけではない。
ただ気持ちよくなるだけでもない。

身体の緊張がゆるみ、呼吸が深まり、思考の速度が落ちていく。

そのことによって、握りしめていたものを手放す時間が生まれる。

こちらが手放させるのではない。
本人の中で、自然とほどけていく。

その時間を繰り返すことで、少しずつ気づいていく。

本当は、すべてはすでに納まっているのだと。

身体も、心も、人生も、無理に整えようとするほど乱れていく。

けれど、力を抜き、呼吸を戻し、自分の内側に静けさが生まれた時、人は気づく。

足りなかったのではない。
壊れていたのでもない。
どこかへ向かわなければならなかったのでもない。

ただ、自分から離れていただけだったのだと。

私は、治療をやめた。

治療という枠で、人を見ることをやめた。

そして今は、人が自分自身に戻り、すべてはすでに納まっていることに気づくための時間をつくっている。

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