第一話では、人生の点が少しずつ線になってきたことを書いた。
第二話では、「よみがえり」とは、未来へ向かって歩き始めたときに、過去の意味が見えてくることなのではないか、と書いた。
では、その先に私がたどり着いたものは何だったのか。
それは、鍼灸という仕事だった。
私はスポーツが好きだった。
サッカーをし、バスケットボールをし、柔術も学んだ。
怪我をするたびに整骨院や整形外科へ通い、いつしかスポーツトレーナーという仕事に憧れるようになった。
振り返れば、その道へ進む人生もあったのだと思う。
けれど、人は自分で選んでいるようで、自分だけでは選んでいないのかもしれない。
兄の勧めで介護福祉を学び、社会というものを知った。
恩師と出会い、鍼灸だけではなく、密教や哲学、思想を学んだ。
気づけば私は、鍼灸師として人と向き合っていた。
鍼灸師になってからは、「治す」ということを大切にしてきた。
痛みを取りたい。
病気を改善したい。
その思いは今も変わらない。
けれど、臨床を重ねるほど、一つの違和感が大きくなっていった。
本当に医療とは、「治すこと」だけなのだろうか。
そんなことを考えながら、何年も人と向き合ってきた。
ある夜、ワールドカップの試合を観ていた。
日本は敗れた。
試合が終わると、選手たちは互いに肩を抱き、背中をさすり、頭を撫でていた。
その姿を見て、犬や猫が互いを舐め合う姿を思い出した。
そこに多くの言葉はない。
励まそうとしているわけでもない。
ただ、触れる。
ただ、そばにいる。
それだけで温度が伝わる。
安心が伝わる。
それは、生き物が本来持っている本能なのだと思った。
私は、その姿に医療の原点を見た気がした。
人は、答えを与えられることで変わるのではない。
自分の中にある答えに気づいたとき、歩き始める。
医療者ができることは、その答えを教えることではない。
その人が安心して、自分の答えに出会える時間を支えることなのだと思う。
闇雲に励ます必要もない。
無理に前を向かせる必要もない。
まずは、その人と自然に合わさること。
呼吸を合わせること。
共鳴すること。
私は、そのような医療でありたい。
人を変える人ではなく、人が自分自身へ還っていく時間を支える人でありたい。
振り返れば、幼い頃の出来事も、お遍路も、恩師との出会いも、高野山という言葉も、すべて今の私につながっているように思える。
もちろん、それが運命だったのかどうかは分からない。
ただ、一つだけ感じていることがある。
私は、なるようになって今ここにいる。
そして、もし私に役割があるとするなら、それは人を治すことではなく、人が安心して自分自身へ還っていける「場所」になることなのだと思う。
それが、今の私が目指している医療のかたちである。

