相手のいない鍼灸は、何を生むのか

半年ほど前、治療院に一人の鍼灸師が研修に来ました。

「どんな治療をしているんですか?」

そう尋ねたとき、返ってきた答えは
「決まったツボに浅く刺して、決まった時間が来たら抜きます」
というものでした。

患者さんが多いと聞いていたので、どんな考えで施術をしているのか楽しみにしていたのですが、その言葉を聞いたとき、正直なところ落胆しました。

そこには「人」がいなかったからです。

それでは、機械が鍼を刺すのと何も変わらない。
そう感じたのです。

この違和感は、ある話と重なります。
元サッカー日本代表の 岩政大樹 氏が書いていたコラムです。

テーマは「なぜ日本サッカーは相手を見ていないのか」。

サッカーは相手がいる競技です。
当然、「自分たちがやるべきこと」と「相手によって変えるべきこと」の両方が存在します。

しかし、ある時期から「自分たちのサッカー」という言葉だけが一人歩きし、「相手を見る」という視点が抜け落ちてしまった。
その結果、状況に応じて変化するという当たり前の前提が失われてしまったという指摘でした。

これは鍼灸にもそのまま当てはまるのではないでしょうか。

決まったツボに、決まった刺激を、決まった時間。
そこに「相手」は存在しているでしょうか。

なぜこのようなことが起きるのか。

ひとつの理由は、日本の鍼灸教育にあります。
教科書には、鍼術とは「一定の方式に従い、一定の刺激を与え、生体反応を利用する施術である」と書かれています。

確かに間違いではありません。
しかし、その定義には「人が人へ」という視点が抜け落ちています。

治療とは、本来もっと不確かなものです。
同じ人でも、日によって状態は変わります。
季節、時間、環境、内面の状態によって、身体の反応は常に揺らいでいる。

それにもかかわらず、すべてを固定化してしまえば、そこに残るのは「作業」だけです。

随分前、恩師に「型とは何か」と尋ねたことがあります。
返ってきたのは「形のないものだ」という答えでした。

当時は禅問答のように感じましたが、今は少し分かる気がします。
形にしてしまえば、それは再現はできても、創造はできない。

治療は、常に一回性です。

ある剣術の逸話があります。
示現流の流祖・東郷重位が、息子の話を聞いたときのこと。
犬を斬った際、刃が地面に触れなかったと自慢する息子に対し、重位は碁盤ごと畳を斬り下げ、「斬るとはこういうものだ」と言ったそうです。

碁盤を斬ろうとしても斬れない。
地面まで断つつもりで振るからこそ、結果として斬れる。

ここにあるのは技術の話ではなく、
「私」と「道具」と「対象」をどう捉えるかという問題です。

鍼灸も同じです。

「私」と「相手」と「鍼」。
この三つが分離しているうちは、ただの作業になります。
しかし、それらが一つの流れとして繋がったとき、はじめて施術は働き始める。

では、どうすればいいのか。

特別なことではありません。
目の前の人を、きちんと見ることです。

身体だけでなく、その人の時間や背景ごと受け取ること。
そして、自分自身の状態にも気づいていること。

決められた型に当てはめるのではなく、その瞬間ごとに関係を結び直す。
それを繰り返していくこと。

鍼灸とは方法ではなく、関係です。

相手のいない鍼灸があるとすれば、
それは誰のためのものなのでしょうか。

その問いから、もう一度考えてみてもいいのかもしれません。

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