今回は
吾輩は猫である の一節からの気づきについて。
主人は好んで病気をして喜んでいるけれど死ぬのは大嫌いである。
死なない程度において病気という一種の贅沢がしていたいのである。
この言葉には、
どこか人間の本質が表れているように感じます。
病気だと言って不安になる。
けれど本気で変わろうとするかというと、そうでもない。
明治の時代も、今も、
本質的な部分は変わっていないのかもしれません。
先日、ある鍼灸師が
「スピリチュアル」について発信しているのを見ました。
鍼灸や整体という分野は、
そういった領域と結びつきやすい側面があります。
体調が崩れているとき、
人は判断力が揺らぎやすくなります。
そんなとき、
強い言葉や断定的な表現に惹かれることもあるでしょう。
それ自体を否定するつもりはありません。
ただ、ひとつ考えたいのは、
その関係性がどこへ向かっているのかということです。
弱っているときほど、
人は誰かに委ねたくなる。
その結果、
いつのまにか依存関係が生まれていくこともあります。
たとえば、
褒められることで安心する。
それが積み重なると、
褒められること自体が目的になってしまうこともある。
本来の目的は、
身体を整えることや、状態を変えていくことのはずです。
けれど気づかないうちに、
軸がずれてしまう。
では、何が必要なのか。
それは、
自分で考えるという姿勢です。
何を選ぶのか。
なぜそれを選ぶのか。
その判断を、
自分の中に持つこと。
回復というものは、
外から与えられるものではありません。
どんなに環境や方法が整っていても、
そこに向き合う意志がなければ変化は起きない。
だからこそ、
主導権は自分にある。
私は、必要以上に褒めることはしません。
その代わり、
目の前の人と真剣に向き合います。
変わりたいと思っている人に、
必要なことを、必要なだけ。
それだけです。
もし、何かを変えたいと思うのであれば。
興味ではなく、
意志として。
その一歩を選んでいただけたらと思います。

