鍼灸という仕事をしていると、
ときどき、立ち位置が揺らぐことがある。
「これは効くのか」
「これは正しいのか」
そう問われたとき、
強く言い切ることもできるし、
逆に、すべてを否定することもできる。
けれど、そのどちらにも、どこか違和感が残る。
ある人は言う。
「続ければ絶対に治る」と。
またある人は言う。
「鍼灸ではどんな病気も治らない」と。
どちらも、わかりやすい言葉だ。
そして、安心しやすい言葉でもある。
しかし実際の身体は、
そんな単純なものではない。
変わることもあれば、変わらないこともある。
時間をかけて変化することもあれば、
何をしても動かないように見えることもある。
その不確かさの中で、
私たちは人の身体に触れている。
だからこそ、
「絶対に治る」と言い切ることにも、
「何も変わらない」と切り捨てることにも、
どちらにも距離を取りたくなる。
鍼灸は、万能ではない。
けれど、無力でもない。
身体の緊張がほどけること。
呼吸が深くなること。
巡りが変わること。
感覚が戻ってくること。
そうした変化が積み重なり、
結果として状態が変わることは、確かにある。
ただしそれは、
「やれば必ずそうなる」というものではない。
見立てや触れ方、頻度、生活背景。
そのすべてが関係している。
だから、変化がないときには、
回数を重ねるのではなく、
設計そのものを見直す必要がある。
ここで、もう一つの違和感がある。
それは「救い」というものについて。
宗教は、心の隙間に寄り添うと言われる。
そこに救われる人がいるのも事実だと思う。
人は、弱るときがある。
不安や痛みの中で、
何かにすがりたくなることもある。
そのときに差し出される
「大丈夫」という言葉や、
「ここにいれば救われる」という安心感は、
確かに人を支える。
けれど、その優しさが
「正しさ」として扱われた瞬間に、
少しずつズレが生まれる。
鍼灸の現場でも、似たことが起こり得る。
エビデンスに基づき、
正しい範囲で施術を行うこと。
あるいは、
慈悲や思いやりをもって関わること。
どちらも大切な要素だ。
しかしそこに、
「これが正しい」「こうすれば良くなる」という
無意識の前提が入り込むとき、
それは相手に何かを“植え付ける”行為にもなりうる。
そしてもし、
その関わりによって状態が変化したとしても、
それが身体への物理的な作用なのか、
安心や信頼による精神的な変化なのかは、
簡単には切り分けられない。
意図的に「良くなる方向へ導こう」とするほど、
関係性は変わっていく。
施術者と患者ではなく、
導く側と導かれる側。
その構造は、
どこか宗教的なものに近づいていく。
もちろん、それが悪いわけではない。
実際に、そこに救われる人もいる。
ただ私は、
そこに無自覚でいたくはないと思っている。
人は本来、自分で選び、自分で歩く存在だと思う。
どの道を選ぶか。
何を信じるか。
どこに身を置くか。
それは、その人のものだ。
だからこそ、
私はできるだけニュートラルでいたいと思う。
良くなると断言することも、
無意味だと切り捨てることもせず、
ただ、今の状態を見て、
変化を観察し、
必要であれば提案する。
そして最終的には、
相手が自分で選べる余白を残す。
もちろん、完全なニュートラルは存在しない。
触れ方ひとつ、言葉ひとつで、
相手には何かしらの影響が生まれる。
それでも、
「影響しているかもしれない」という自覚を持ち続けること。
その上で、できるだけ偏らず、
押し付けず、
決めつけずに関わること。
その姿勢だけは、手放したくないと思っている。
鍼灸は、答えを与えるものではない。
身体に触れることで、
その人が自分の状態に気づくきっかけをつくるもの。
そしてその気づきの先に、
どう変わっていくかは、
その人自身の領域に委ねられている。
強い言葉は、わかりやすい。
けれど、何かをこぼしやすい。
曖昧なまま扱うことは、難しい。
けれど、本質に近いとも感じている。
だから私は、
言い切らないまま、関わっていきたいと思う。
その不確かさごと引き受けながら、
目の前の一人と向き合っていく。
それが、今の私の仕事のかたちです。

