先日、足首に縫い傷のある人を診た。
脉に触れながら、その傷が身体に残している影響を考えていた。
交通事故によるものだろうかと思い、傷について尋ねた。
数年前の交通事故だった。
そして、その事故によって、当時お腹にいた子を死産したのだと聞いた。
私は、こういうとき、自分の無力さと向き合う。
どれほど身体の仕組みを学び、脉を読み、目の前に起きていることを論理的に解釈しようとしても、その人が経験してきた時間の前では、知識も技術もあまりに小さい。
鍼灸師という仕事に就き、多くの人の身体に触れてきた。
そのなかで気づいたのは、論理的に理解することと、その人を理解することは、決して同じではないということだった。
傷が身体にどのような影響を残しているのか。
事故によって、どこに緊張が生まれ、どのような不調につながっているのか。
それを考えることはできる。
けれど、失ったものの大きさや、その後をどのように生きてきたのかを、私が理解したつもりになることはできない。
相手を弱い存在として見ているわけではない。
過小評価しているわけでもない。
それでも、その人が今日まで生き、今日この場所に来て、私の目の前にいることを思うと、うまく言葉にはできない感情が生まれる。
奇跡という言葉が正しいのかは分からない。
ただ、生きていてくれてありがとう、と思う。
その一方で、失った時間と向き合いながら生きてきた人に、私はどのように向き合えばよいのか戸惑う。
励ますことはできない。
分かります、とも言えない。
安易な共感の言葉は、ときに相手が抱えてきた時間を、小さな言葉の中に閉じ込めてしまう。
だから私は、言葉を探すことをやめる。
ただ、脉に触れる。
そこにある身体の反応を感じながら、鍼を置き、灸を据える。
過去を変えることはできない。
失われたものを取り戻すこともできない。
私にできるのは、目の前にいるその人に触れ、今ここにある身体を丁寧に診ることだけだ。
それは、あまりに小さなことかもしれない。
それでも、この瞬間を大切にする。
言葉にならないものを、無理に言葉にしないまま。
ただ、触れること。
それが今の私にできる、ひとつの向き合い方なのだと思う。

