自分と他者を分けられないのだとしたら、私たちはどう生きるのか

最近、ふと思った。

「人の目を気にしない」ということと、

「人を気にしない」ということは、

同じではないのかもしれない。

今は、

「人の目を気にしなくていい」

「もっと自分を大切にしよう」

「自分らしく生きよう」

という言葉をよく聞く。

もちろん、それは大切なことだと思う。

人に合わせすぎたり、誰かの期待に応えようとしたりして、自分を見失ってしまうこともある。

だから、自分を大切にすることは必要だ。

けれど、それがいつの間にか、

「自分がよければいい」

というところまで進んでしまうことがある。

人の目を気にしないことは、

人からの評価に縛られないことだ。

けれど、

人を気にしないことは、

自分の行為の先にいる人を見なくなることでもある。

この二つは、ずいぶん違う。

そんなことを考えていたら、なぜだかドーナツの穴が頭に浮かんだ。

ドーナツの内側を「自分」だとする。

穴に面した内側を、そのままずっと辿っていく。

すると、どこかで切れることなく外側へつながっている。

さらに進んでいけば、また内側へ戻ってくる。

内側と外側。

別々のものに見えているけれど、

実際にはひとつにつながっている。

自分と他人も、案外そんなものなのかもしれない。

以前、銭湯で思ったことがある。

身体を拭かず、濡れたまま脱衣所へ出てくる人がいる。

当然、床は濡れる。

「あとで誰かが拭けばいい」

そう考えれば、それで終わりなのかもしれない。

自分はもう、その場所を通り過ぎている。

けれど、水はそこに残る。

誰かが踏めば不快に思うかもしれない。

滑るかもしれない。

転ぶ人がいるかもしれない。

そして、誰かがその床を拭くことになる。

自分にとっては終わった行為でも、

その行為は、自分が立ち去ったあとも続いている。

次に自分が銭湯へ行ったときには、

今度は誰かが濡らした床を自分が歩くかもしれない。

そのとき、

「どうして身体を拭いてから出ないのだろう」

と思うかもしれない。

ゴミも同じだ。

自分が捨てれば、その瞬間、自分の手からはなくなる。

けれど、ゴミそのものがなくなったわけではない。

誰かが拾う。

誰かが片づける。

街が汚れる。

そして、その街を歩いているのも自分である。

自分がしたことと、

自分が受け取ること。

別々の出来事のように見えているけれど、

もっと長いところから眺めれば、どこかでつながっている。

だから、

人を気にしないということは、

巡り巡って、自分を気にしないことでもあるのではないかと思った。

前にこんな言葉を目にしたことがある。

「人に迷惑をかけてはいけない」と教える考え方がある一方で、

「人は生きている限り、お互いに迷惑をかけ合うものなのだから、他人の迷惑も許しなさい」

という考え方もあるという。

後者の方が、寛容で人間らしいようにも感じる。

確かに、人は一人では生きられない。

誰かに助けてもらい、

誰かの手を借り、

自分の知らないところでも支えてもらいながら生きている。

だから、

「絶対に人に迷惑をかけてはいけない」

と考えれば、苦しくなる。

迷惑をかけてしまった自分を許せなくなることもあるし、

他人の失敗にも厳しくなる。

けれど、

「人は迷惑をかけ合うものなのだから、お互いに許せばいい」

だけでも、少し違うように思う。

それだけなら、

自分の行為の先にいる人を想像しなくてもよくなってしまう。

床を濡らしても誰かが拭く。

ゴミを捨てても誰かが拾う。

人間なのだから仕方がない。

お互いさまなのだから仕方がない。

そうやって終わらせることもできる。

たぶん、どちらかではない。

迷惑をかけないように生きる。

それでも、人は迷惑をかけてしまう。

だから、許す。

その両方なのだと思う。

日本には昔から、

「いただきます」

「もったいない」

「おかげさま」

という言葉がある。

こうした言葉には、

自分だけで物事が成り立っているわけではない、

という感覚が含まれているように思う。

自分が頑張った。

自分が成し遂げた。

自分の力でここまで来た。

もちろん、それもある。

けれど、その後ろには、

自分からは見えないところで何かをしている人がいる。

食べ物をつくる人がいる。

運ぶ人がいる。

掃除をする人がいる。

場所を整える人がいる。

そして、自然がある。

そうしたものの「おかげ」で、

自分がここにいる。

だから、人を大切にすることも、

「人を大切にすれば、いつか自分にも良いことが返ってくる」

という話ではないのだと思う。

それでは、まだ中心に自分がいる。

自分のために、人を大切にしている。

そうではなく、

人も、

自然も、

場所も、

物も、

そして自分も、

最初から同じ世界の中にある。

だから大切にする。

ただ、それだけなのかもしれない。

私たちは、

自分のためか、他人のためか。

自分を大切にするのか、人を大切にするのか。

個人か、集団か。

そんなふうに、二つに分けて考えたくなる。

けれど、

本当にそんなにはっきりと分けられるものなのだろうか。

自分を見てみる。

そこには、たくさんの他人がいる。

親からもらったもの。

誰かから教わったこと。

傷つけられた言葉。

助けてもらった記憶。

出会った人。

別れた人。

自分というものは、

そうした無数の人との関係の中でつくられている。

反対に、他人を見ているときにも、自分が現れる。

あの人が嫌いだ。

あの人はわがままだ。

あの人の言葉に腹が立つ。

相手を見ているつもりでも、

そこには、その人に反応している自分がいる。

自分を辿っていたら、他人に出会う。

他人を辿っていたら、自分に戻ってくる。

内側から外側へ。

外側から内側へ。

だから、

「自分を大切にすること」と、

「人を大切にすること」は、

本当は反対側にあるものではないのかもしれない。

人を大切にする。

自然を大切にする。

場所を大切にする。

物を大切にする。

それは、自分を犠牲にすることではない。

自分もまた、

その中で生きているからだ。

人の目を気にしなくてもいい。

けれど、

人まで気にしなくていいわけではない。

むしろ、人を気にしないということは、

自分が生きている世界を気にしないことなのかもしれない。

そして、それは巡り巡って、

自分を気にしないことにもなる。

自分のためなのか。

他人のためなのか。

どちらが先なのか。

そう考えていたけれど、

そもそも、

その二つを分けていたこと自体が違っていたのかもしれない。

ドーナツの内側を辿っていく。

すると、いつの間にか外側にいる。

そして、そのまま進んでいけば、

また内側へ戻ってくる。

自分と他人も、

案外、

そんなものなのかもしれない。

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