『宇多田ヒカル「SCIENCE FICTION」interview』の映像を知っていますか?
冒頭から3分間の内容を観ていると考えさせられることが沢山あります。
ぜひ視聴してみてください。
今日はそんな話を交えた話を書いていきたいと思います。
『鍼灸の挑戦|松田博公|岩波書店』という本があるのですが、私は暇な時に読み返すことがあります。
その中で井上雅文先生が〈脉診はフィクションである〉という言葉を記していますが、自分なりに解釈したことがいかに不確かで曖昧であるか気づきます。ようは分かっていると思っていることが実際には分かっているとは言えないという事です。
恩師に「鍼はなぜ効くのか?」という問いをした時に「それを分かるというのは傲慢だ」と叱責されたことがあるのですが、歳を重ねると多くのことが実際には分からないということを知ります。
つまり、昨日の景色と今日の景色では時間や内面の変化によって見え方は異なるのに「こうである」という答えが実際には違うのですから不思議なものです。
それ故に日々の移ろいに対して肌に当たる風や質感の変化といったこれまで気にしていなかったことに気付けた時に喜びを感じるのですが、同様に桜に儚さと美しさを照らし合わせるのは日本人が刹那の美を知っているからでしょう。
動画の中で宇多田ヒカルさんは「ヒカルの音楽を何て言えばいいかわからない」ということに対して『SCIENCE FICTION』という言葉に当てはめます。
「形ないものは存在しない、危ういと考えるものの、形あるものですら本当に存在しているのか、その真実とするものも主観的であって不確か」と。
では何を信じたら良いのか。
そのことを「自分を信じなければ存在しないに同義」と描いています。
標準とは何だろか。
手順とは何だろか。
客観的であろうと人間が介入することで生じる誤差はどう埋めるのか。
AIが介入することで生じる誤差もどう埋めるのか。
その点は結局のところ人間が物事を疑い問わなければ前進はしないと思いつつ、なぜ形式を作るために労力が使われるのか何となく答えがでました。
日本がガラパゴス化した理由がみえてきます。
なぜ世界と逆行したのだろう。
世界の基準は果たして正しさの象徴なのだろうか。
そのこととは逆に、彼らが日本文化を大切にし始めたことはなぜなのか。
その答えは。
そんなことを考えることは野暮なのかもしれません。