先日、あるドラマを観たあとに考察を読んでいた。
そこで、「人は相手そのものを見ているのではなく、自分の中につくった人物像を見ているのではないか」という視点に出会った。
たとえば、「家族が苦手」と言った人がいる。
その一言から、「家族嫌いな人」という人物像をつくる。
少し優しい言葉をかければ、「優しい人」。
つらい過去を知れば、「かわいそうな人」。
私たちは、相手の断片的な言葉や行動から、その人らしきものをつくり上げる。
そして、その人物像から本人が少し外れただけで、
「そんな人だと思わなかった」
「裏切られた」
と感じる。
けれど、本当に相手が裏切ったのだろうか。
もしかすると、壊れたのは相手ではなく、自分の中につくっていた「その人」なのかもしれない。
この考察を読んでいて、私はこれまで鍼灸師として働くなかで、ずっと抱いていた違和感を思い出した。
それは、
「この人なら治してくれる」
というフィルターの存在だった。
私は、期待されたくないわけではない。
期待しないでほしいとも思っていない。
身体に不調があれば、良くなりたいと思う。
症状が重ければ重いほど、「ここなら何とかしてくれるかもしれない」と思うのも自然なことだろう。
けれど、そこで生まれた期待は、誰がつくったものなのだろう。
私は「必ず治します」と約束しているわけではない。
「あなたの望む結果を出します」と約束しているわけでもない。
それでも、
「この先生なら治してくれる」
「ここなら何とかしてくれる」
という期待は、いつの間にか相手の中で膨らんでいく。
そして、その期待通りにならなかったとき、人は肩を落とす。
ときには、まるでこちらが何かを約束して、それを破ったかのような空気になる。
けれど、その未来を描いたのは誰なのだろう。
期待とは、相手との約束ではなく、自分の中に生まれた未来予測なのかもしれない。
「この人はこうしてくれるはずだ」
「この人なら分かってくれるはずだ」
「この人なら治してくれるはずだ」
そう思っているうちに、
「私はそう期待している」
という話が、
「この人はそうしてくれる」
という事実のように変わっていく。
そして現実が違えば、失望する。
考えてみれば、人はずいぶん我儘だ。
自分で期待し、
自分で人物像をつくり、
自分でその先の物語まで描く。
それなのに、その物語の通りにならなければ、
「裏切られた」
と思う。
私は長い間、
いつから人はこんなふうになったのだろう。
いつから、こんな社会になったのだろう。
と思っていた。
けれど、どうやら最近始まったことではないらしい。
仏教では、二千年以上も前から、人間が自分の認識によって世界をつくり、その世界に執着することで苦しむことを説いてきた。
仏教には「想」という考えがある。
人は、目の前にあるものをただ見ているのではなく、それを認識し、意味を与えながら世界を見ている。
「あの人は優しい」
「あの人は冷たい」
「あの人なら分かってくれる」
「この先生なら治してくれる」
そうやって、自分の中に相手の像をつくる。
そして、
「こうであってほしい」
「こうしてくれるはずだ」
と、その像を握りしめる。
仏教では、その握りしめることを執着と呼ぶ。
だから、問題は期待することそのものではないのだと思う。
期待していることに、自分で気づいていないこと。
「私はこう期待している」が、
「相手はこうするべきだ」に変わっていること。
そこに苦しさが生まれる。
そして、これは他人に対してだけではない。
「私はこういう人間だから」
「自分には向いていない」
「私はこうあるべきだ」
自分自身にも、同じようにフィルターをかけている。
他人を固定し、自分を固定し、その像から外れないように生きようとする。
けれど仏教では、「これこそが本当の私だ」という固定した自己さえも疑う。
そのときどきの環境や経験、身体の状態、人との関係。
さまざまな条件によって、私たちは変わり続けている。
そう考えると、
「あの人はこういう人だ」
という言葉も、
「私はこういう人間だ」
という言葉も、
ずいぶん強い決めつけなのかもしれない。
今回、この「フィルター」という言葉を考えていて、こんな整理ができた。
凡夫は、フィルター越しに見た世界を「現実そのもの」だと思う。
智慧とは、フィルターがあることを知り、
「私には、そう見えている」
と観察すること。
そして空とは、フィルターも、それを通して見る私も、見られている相手も、すべてさまざまな条件によって成り立っていると見ることなのだという。
そう考えると、フィルターをなくす必要はないのかもしれない。
人間である以上、何の解釈もせずに世界を見ることなど、きっとできない。
大切なのは、
「あの人はこういう人だ」
ではなく、
「私には、あの人がこう見えている」
と知ること。
「この人なら治してくれるはずだ」
ではなく、
「私は、この人に治してほしいと期待している」
と知ること。
主語を自分に戻すだけで、ずいぶん見え方が変わる。
相手が裏切ったのではなく、
自分の期待と現実が違っただけかもしれない。
相手がおかしいのではなく、
自分がひとつのフィルターを通して見ているだけかもしれない。
ドラマの考察から始まった小さな気づきだった。
けれど、その視点は、これまで鍼灸師として感じてきた違和感や、人との関わり方、自分自身の見方にまでつながっていった。
世界そのものが変わるわけではない。
相手が変わるわけでもない。
ただ、
自分が何を通して世界を見ているのか。
その存在に気づくと、
世界の見え方は、少し変わるのだろう。

