前を向くということ

一昨日の夜、ふとNetflixのボタンを押した。

何か観たいものがあったわけではない。
暇つぶしといえば、そうだったのだろう。

そこに『ひゃくえむ。』という、100メートル走を題材にしたアニメが表示されていた。

寝る前に観るには、ちょうどいい。

そんな軽い気持ちで再生したはずなのに、気づけば眠ることも忘れ、最後まで観入っていた。

先週、先々週と、何人かの鍼灸師とやり取りをする機会があった。

私たちは、大きな組織に属しているわけではない。

何を学ぶのか。
どのような施術をするのか。
誰を相手に仕事をするのか。
そして、これからどのように生きていくのか。

その多くを、自分で決めなければならない。

守ってくれる組織がないということは、自由でもある。

その一方で、自分の選択を誰かのせいにはできないということでもある。

そんな時期に観たからだろうか。

100メートルという、わずかな距離を走る物語が、人生そのもののように思えた。

100メートル走は、単純だ。

スタート地点に立ち、
合図とともに走り出し、
誰よりも早くゴールへたどり着く。

ただ、それだけのことだ。

けれど、そのわずかな時間のために、選手たちは身体をつくり、時間を使い、才能を磨き、ときには人生そのものを差し出している。

人生も、それほど違わないのかもしれない。

仮に80年生きるとしても、始まりがあり、終わりがある。

走っている最中は長く感じても、最後に振り返れば、ほんの一瞬だったと思うのだろう。

その限られた時間を、自分は何に使うのか。

何に時間を差し出し、何を選び、どこへ向かうのか。

けれど、そんな問いさえ、人間が勝手につくり出したものなのかもしれない。

何かを成し遂げたからといって、世界に特別な意味が生まれるわけではない。

何者かになれなかったからといって、その人生が否定されるわけでもない。

私は以前から、すべての存在はすでに肯定されていて、人生そのものに最初から決められた意味などないと思っている。

それでも、人は悩む。

不安を抱え、苦しみ、葛藤する。

そして、その不安や苦しみこそが、自分の人生そのものだと思い込んでしまうことがある。

けれど、本当にそうなのだろうか。

作中に、印象に残った言葉があった。

不安は対処すべきものではない。
人生は常に、何かを失う可能性に満ちている。
恐怖は不快なものではなく、安全もまた愉快なものではない。
不安とは、自分が自分を試すときに生じる感情なのだ。

私たちは、見えない不安を抱えて生きている。

仕事は、この先どうなるのか。
人との関係は続いていくのか。
身体はいつまで動くのか。
大切なものを失わずにいられるのか。

答えのない問いを抱えながら、それを何とか消そうとする。

けれど、不安というものは、本当に消せるのだろうか。

仕事が安定すれば、今度はその安定を失うのが怖くなる。

大切な人ができれば、その人を失う可能性も生まれる。

何かを手に入れれば、それを守るための不安が始まる。

安全や安定というものは、手に入れた瞬間に完成するものではない。

むしろ、それを失わないように守り続けるという、新しい緊張が生まれる。

生きている限り、人は何かを失っていく。

若さを失う。
体力を失う。
役割を失う。
人との関係を失う。

かつて信じていた価値観さえ、いつか自分には合わなくなることがある。

手の中にあったものは、時間とともに少しずつ零れ落ちていく。

私たちは、それを嫌がる。

なくなったものを取り戻そうとする。

変わってしまったものを、以前の形へ戻そうとする。

けれど、零れ落ちるものを拒んで、手を固く握りしめたままでは、新しいものを受け取ることもできない。

何かを受け取るためには、手をひらかなければならない。

手をひらけば、握っていたものは落ちていく。

それでも、手放した場所にしか入ってこないものがある。

失うということは、ただ奪われることではないのかもしれない。

それまで自分を支えていたものがなくなり、その空いた場所に、これまでとは違う何かが入ってくる。

不安とは、その変化に対する抵抗なのだと思う。

前へ進もうとすれば、抵抗が生まれる。

何かを選べば、選ばなかった可能性を失う。

新しい場所へ進めば、慣れ親しんだ場所から離れなければならない。

誰かを大切にすれば、いつか失うかもしれないという恐れも引き受けることになる。

抵抗があるから進むのではない。

進もうとするから、抵抗が生まれる。

そう考えると、不安は必ずしも悪いものではない。

人生が間違っていることを知らせる警報でもない。

自分が何かを選び、これまでいた場所から動こうとするときに生まれる、自然な重さなのだと思う。

もちろん、不安を乗り越えれば成長できる、という単純な話ではない。

苦しみに意味があると言いたいわけでもない。

人生そのものには、おそらく最初から意味などない。

それでも人は、限られた時間の中で何かを選ぶ。

意味があるから走るのではない。

走っているうちに、その人だけの時間が生まれていく。

100メートルを走ることにも、
鍼をすることにも、
仕事を続けることにも、
それ自体に絶対的な意味などない。

けれど、

何を選んだのか。

何を差し出したのか。

何を恐れ、何を握りしめ、何を手放そうとしたのか。

その一つひとつを通して、自分というものに少しずつ気づいていく。

生きるということは、その気づきの連続なのかもしれない。

不安をなくすことではない。

何も失わない場所を探すことでもない。

零れ落ちていくものに気づく。

それを必死に握りしめていた自分にも気づく。

そして、手をひらかなければ受け取れないものがあることにも気づく。

それでも、また走る。

前を向くということは、過去を忘れることではない。

失ったものをなかったことにすることでもない。

大切なものは、大切なままでいい。

ただ、自分に残された時間のすべてを、失ったものだけに預けないことだ。

不安が消えてから進むのではない。

怖くなくなってから走るのでもない。

不安も、失う可能性も抱えたまま、それでも自分で次の一歩を選ぶ。

100メートルの先に何があるのかは、誰にも分からない。

ただ一つ分かっているのは、

私たちに与えられた距離には、いつか終わりが来るということだ。

だからこそ、何も失わないように立ち止まり続けるよりも、

自分に残された時間を、自分なりに走っていたいと思う。

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