読まないという選択

以前、ある人から聞いた言葉がある。

「一番効く薬は、毒である」

その言葉を聞いたとき、そこにいた二人で、妙に納得してしまった

よく効くものほど、使い方を間違えれば身体を傷つける。

薬と毒は、まったく別のものではなく、量や使い方によって、その働きが変わる。

治療の仕事をしているからか、その言葉はすぐに身体の中へ入ってきた。

そして昨日、稲葉俊郎さんの『ことばのくすり』という本を手にした。

まだ読み始めたばかりだけれど、言葉も薬と同じなのかもしれないと思った。

薬を多く飲めば、その成分は身体に残る。

必要なものであっても、量が多すぎれば負担になる。

違う視点で見れば、言葉も同じなのだろう。

人から言われた言葉。

何気なく目にした文章。

流れてきたニュース。

誰かの怒りや、不安や、正しさ。

その場では聞き流したつもりでも、言葉はどこかに残っている。

時間が経ってから、ふと思い出すこともある。

自分の考えだと思っていたものが、実は誰かから受け取った言葉だったと気づくこともある。

今は、あまりにも多くの言葉に触れる時代になった。

朝起きれば、まだ自分の感覚が戻らないうちから、誰かの言葉が目に入る。

喜びも、悲しみも、怒りも、正義も、同じ画面の中を流れていく。

こちらが求めていなくても、言葉の方からやってくる。

その一つひとつを受け取っていたら、気が滅入るのも無理はない。

それだけでは済まず、心が少しずつ蝕まれてしまうこともある。

だから今は、何を読むかと同じくらい、何を読まないかが大切なのだと思う。

知ることが、いつも自分を豊かにするわけではない。

知らないことで守られる感覚もある。

見ないことで保たれる静けさもある。

情報から離れることは、社会から逃げることではない。

自分の内側へ入れるものを、自分で選ぶということなのだろう。

そして、このエッセイも同じである。

私は毎日、文章を投稿している。

思ったことや、治療の中で感じたこと、日々の中で立ち止まったことを言葉にしている。

けれど、私が書いたものが、すべての人に必要だとは思っていない。

読んだことで何かを得る人もいれば、読まないことで得るものがある人もいる。

今は受け取らない方がよい言葉もあるだろう。

その人の状態によっては、薬になるはずの言葉が、重荷になることもある。

言葉を書くということには、責任がともなう。

自分にとって真実であったことが、別の人にとっても真実であるとは限らない。

自分を救った考えが、誰かを苦しめることもある。

強い言葉は、人を動かす。

けれど同時に、人の心の奥へ入り込み、長く残る。

だから、書く側は自由であっても、無責任ではいられない。

どのような言葉を置くのか。

どこまで書くのか。

何を断定せずに残すのか。

言葉の内容だけではなく、言葉を置く場所や、その強さまで考える必要がある。

それでも私は、これからも書くのだと思う。

誰かを動かすためというよりも、自分が見たものを、自分なりの言葉で残しておきたいからだ。

ただし、届けることと、飲ませることは違う。

読むかどうかは、読む人に委ねられている。

必要なときに読めばいい。

違うと思えば、閉じればいい。

何も受け取りたくない日は、読まなくてもいい。

一番効く薬は、毒である。

そう考えるならば、言葉を書く者は、自分の言葉に効き目があると信じる前に、毒にもなり得ることを忘れてはいけない。

そして読む側にも、自分に必要な言葉を選び、必要のない言葉から離れる自由がある。

言葉が溢れている今だからこそ、その両方が必要なのだと思う。

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