第三話 場所になる

第一話では、人生の点が少しずつ線になってきたことを書いた。

第二話では、「よみがえり」とは、未来へ向かって歩き始めたときに、過去の意味が見えてくることなのではないか、と書いた。

では、その先に私がたどり着いたものは何だったのか。

それは、鍼灸という仕事だった。

私はスポーツが好きだった。

サッカーをし、バスケットボールをし、柔術も学んだ。

怪我をするたびに整骨院や整形外科へ通い、いつしかスポーツトレーナーという仕事に憧れるようになった。

振り返れば、その道へ進む人生もあったのだと思う。

けれど、人は自分で選んでいるようで、自分だけでは選んでいないのかもしれない。

兄の勧めで介護福祉を学び、社会というものを知った。

恩師と出会い、鍼灸だけではなく、密教や哲学、思想を学んだ。

気づけば私は、鍼灸師として人と向き合っていた。

鍼灸師になってからは、「治す」ということを大切にしてきた。

痛みを取りたい。

病気を改善したい。

その思いは今も変わらない。

けれど、臨床を重ねるほど、一つの違和感が大きくなっていった。

本当に医療とは、「治すこと」だけなのだろうか。

そんなことを考えながら、何年も人と向き合ってきた。

ある夜、ワールドカップの試合を観ていた。

日本は敗れた。

試合が終わると、選手たちは互いに肩を抱き、背中をさすり、頭を撫でていた。

その姿を見て、犬や猫が互いを舐め合う姿を思い出した。

そこに多くの言葉はない。

励まそうとしているわけでもない。

ただ、触れる。

ただ、そばにいる。

それだけで温度が伝わる。

安心が伝わる。

それは、生き物が本来持っている本能なのだと思った。

私は、その姿に医療の原点を見た気がした。

人は、答えを与えられることで変わるのではない。

自分の中にある答えに気づいたとき、歩き始める。

医療者ができることは、その答えを教えることではない。

その人が安心して、自分の答えに出会える時間を支えることなのだと思う。

闇雲に励ます必要もない。

無理に前を向かせる必要もない。

まずは、その人と自然に合わさること。

呼吸を合わせること。

共鳴すること。

私は、そのような医療でありたい。

人を変える人ではなく、人が自分自身へ還っていく時間を支える人でありたい。

振り返れば、幼い頃の出来事も、お遍路も、恩師との出会いも、高野山という言葉も、すべて今の私につながっているように思える。

もちろん、それが運命だったのかどうかは分からない。

ただ、一つだけ感じていることがある。

私は、なるようになって今ここにいる。

そして、もし私に役割があるとするなら、それは人を治すことではなく、人が安心して自分自身へ還っていける「場所」になることなのだと思う。

それが、今の私が目指している医療のかたちである。

過去の記録と、いまの思考。

それぞれ別の場所に残しています。

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