自分だけを大切にしなくていい

先日、ショッピングモールを歩いていて、ふと思った。

私たちは、ずいぶん長いあいだ、

「自分を大切にしよう」

と教わってきたように思う。

自己肯定感を育てよう。
自分を認めよう。
自分らしく生きよう。

どれも、大切なことなのだと思う。

けれど、その「自分」というものを大きくしすぎてしまったら、どうなるのだろう。

自分を認めてほしい。
自分を見てほしい。
自分を評価してほしい。

自分がどう感じるか。
自分が得をするか。
自分が心地よいか。

そんなふうに、いつの間にか「自分」が世界の中心に置かれてしまうことがある。

なぜだか、そんなことを感じた。

銭湯に行くと、身体を拭かずに脱衣所へ出てくる人がいる。

当然、床は濡れる。

そして、その床を拭く人がいる。

「それを拭くのが仕事なのだから」

そう考えれば、それまでなのかもしれない。

けれど、自分が身体を拭いてから出れば、床は濡れない。

誰かが拭く必要もない。

次に歩く人が、濡れた床を歩くこともない。

ほんの数秒のことだ。

だからといって、

「人が見ているから、きちんとしよう」

という話でもない。

誰かに褒められるためでもない。

良い人だと思われるためでもない。

以前、バスケットボールのレフリーが言っていた。

「オンザコートは、オフザコートと変わらない」

この言葉が、ずっと残っている。

コートに入ったからといって、突然その人の生き方が変わるわけではない。

審判にどう接するか。

相手にどう接するか。

仲間の失敗をどう扱うか。

普段の生き方が、そのままコートの上に現れる。

きっと、銭湯も同じなのだと思う。

誰も見ていないところで、どう振る舞うのか。

それはマナーというより、その人が世界とどう関わっているかということなのだと思う。

そんなことを考えていたら、仏教の「空」という言葉を思い出した。

空とは、何もないということではない。

私たちは「私」というものが、ひとつの独立した存在としてあるように思っている。

けれど、本当にそうなのだろうか。

この身体は、自分だけではつくれない。

食べ物があり、水があり、空気がある。

親がいて、そのまた親がいる。

言葉も、自分でつくったものではない。

考え方も、これまで出会った人や経験によって形づくられている。

そうやって辿っていくと、

世界から切り離されて存在している「私」というものが、本当にあるのかわからなくなる。

私は、全体から切り離された一個の存在なのではなく、

無数のものとの関係の中に、

一時的に「私」という形で現れているだけなのかもしれない。

そう考えると、自分と他者という分け方も、少し違って見えてくる。

「自分を大切にする」

「他者を大切にする」

私たちは、それを二つのこととして考える。

けれど、本当に二つなのだろうか。

自分も他者も、同じ全体の中にある。

そして、ひとつの個の振る舞いは、必ずその全体に影響する。

濡れた床をつくれば、誰かが拭く。

投げた言葉は、誰かが受け取る。

コートの上での振る舞いは、その場の空気を変える。

反対に、誰にも見られていない小さな配慮も、その後にいる誰かへ渡っていく。

自分の行為が、自分だけで終わることはない。

禅に、

「犬に仏性はあるのか」

という問いがある。

答えは、

「無」。

私は、この「無」に興味を持った。

ある。

ない。

その二つから選ぶのなら、「無」は「ない」の側になる。

けれど、禅の「無」は、そういう意味ではない。

あるか。

ないか。

——無。

その問いそのものが、二つに分けすぎている。

私たちは世界を、すぐ二つに分ける。

正しい、間違い。

善、悪。

自分、他者。

得、損。

ある、ない。

けれど、生きることの中には、

二進法では出てこない答えがあるのだと思う。

自分を大切にするのか。

他者を大切にするのか。

それも、どちらかではない。

自分を大切にするように、他者を大切にする。

他者を大切にするように、場所を大切にする。

物を大切にする。

自分がいる世界を大切にする。

なぜなら、自分もその全体のひとつだから。

ただし、

大切にしてほしいから、大切にするのではない。

親切にしたから、親切にしてほしいのでもない。

善い人になりたいからでもない。

誰かに評価されるためでもない。

それでは、まだ中心に「私」がいる。

誰も見ていなくても、身体を拭いてから脱衣所へ出る。

誰も褒めなくても、使ったものを元に戻す。

コートの中でも、外でも、人を雑に扱わない。

正しいから、ではない。

見返りがあるから、でもない。

ただ、そう在る。

私は、

それが「道」なのだと思う。

私というものは、確かにここにいる。

けれど、

世界から切り離された「私」など、

本当はどこにもいないのかもしれない。

あるのか。

ないのか。

そのどちらかを選ぶのではなく、

無。

人間というものも、

案外、そんなものなのかもしれない。

ここに「いる」のではなく、

ただ、在る。

そのことで、

十分なのだろう。

そんなことを思う。

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