何者にもならなくていい

娘のことで、ひとつ気づいたことがあった。

人は、何になるのだろう。

子どもの頃から、私たちは何度も聞かれる。

「将来、何になりたい?」

大人になってからも、それほど変わらない。

どんな仕事をするのか。
どんな立場になるのか。
何を成し遂げるのか。
何者になるのか。

私たちは、まだ何者でもない自分が、いつか何者かになるように考えている。

けれど、もしかすると違うのかもしれない。

人が生き抜いた先にある答えは、

「自分になる」

ということなのではないか。

そんなことを思った。

きっかけは、娘だった。

けれど娘のことを考えているうちに、これまで患者の身体を見ながら、どこかで感じていたことともつながった。

身体を見ていると、その人が生きてきた時間を感じることがある。

仕事。
家族。
人間関係。
我慢してきたこと。
頑張ってきたこと。
繰り返してしまうこと。

身体だけを切り離して見ることは、なかなかできない。

その人がどのように生きてきたのか。

その積み重ねの中に、今の身体がある。

だから私は長い間、

過去が積み重なって、現在の自分ができているのだと思っていた。

過去が現在をつくり、
現在の選択が未来をつくる。

時間とは、そういうものだと思っていた。

けれど最近は、少し違う感覚がある。

時間は、

過去から現在へ、
現在から未来へ、

一方向に流れているだけではないのかもしれない。

未来にいる自分から、今が導かれている。

そんな見方もできるのではないかと思う。

振り返ってみると、

そのときには意味のわからなかった出来事が、ずっと後になって別の出来事とつながることがある。

なぜ、あの人と出会ったのか。
なぜ、あの仕事を選んだのか。
なぜ、うまくいかなかったのか。
なぜ、あの場所を離れたのか。

その瞬間には偶然にしか見えなかったものが、

時間が経って振り返ると、

「あれがなければ、ここにはいなかった」

という出来事に変わっている。

偶然だったのかもしれない。

けれど、その偶然がなければ今の自分はいない。

運命とは、
必然という偶然のもとに起きているのかもしれない。

だから人生には、思い通りにならないことがある。

遠回りすることもある。

自分とはまったく関係がないと思っていたことに、長い時間を使うこともある。

けれど、それらを通らなければ見つからなかった自分もいる。

そう考えていくと、

「何者になればいいのか」

という問いそのものが、少し違って見えてくる。

何かになろうとしなくてもいいのかもしれない。

誰かのようにならなくてもいい。

正しい人生を探し続けなくてもいい。

私は、

私にしかならない。

ただ、その「私」が最初から完成しているわけではない。

人と出会い、
迷い、
選び、
失敗し、

ときには、自分では選ばなかった出来事にも出会う。

その一つひとつを通りながら、

余計なものが少しずつ落ちていく。

そうして最後に残っていくものが、

自分なのではないだろうか。

娘がこれから何になるのか。

少し前までなら、そんなことを考えていたかもしれない。

けれど今は、

何になるのかは、それほど大切ではないように思う。

どんな仕事を選んでもいい。
途中で変わってもいい。
遠回りしてもいい。

私が知りたいのは、その先なのだと思う。

この子が、どんな自分になっていくのか。

いや、

どんな自分であったことに、気づいていくのか。

人は、何者かになるために生きているのではなく、

自分になるために生きている。

そうだとしたら、

人生で起きるいくつもの偶然も、

いつか自分へ辿り着くための道なのかもしれない。

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