人は、すぐに結論を出したがる。
悪いのは誰か。
原因は何か。
正しいのはどちらか。
どうすれば治るのか。
その答えが早く出るほど、人は安心する。
不安定なまま物事を眺めるよりも、「これはこうだ」と決めてしまった方が楽だからだ。
けれど、身体に触れる仕事をしていると、そんなに簡単に割り切れないことばかりだと気づく。
肩がこる。
腰が痛い。
眠れない。
疲れが抜けない。
その症状だけを見れば、原因は筋肉かもしれない。姿勢かもしれない。使いすぎかもしれない。
でも、実際にはそれだけではない。
睡眠、食事、仕事、人間関係、緊張、我慢、年齢、性格、生活の癖。
その人がどのように生きてきたのか。
どのように無理をしてきたのか。
どこで休めなくなったのか。
身体には、そういったものが静かに積み重なっている。
だから私は、治療をしながら思うことがある。
多くの人は、結論を求めているのだと。
ここが悪いんですよね。
これをすれば治りますよね。
何回でよくなりますか。
原因は姿勢ですか。
ストレスですか。
もちろん、その問いが悪いわけではない。
不調があれば、理由を知りたくなるのは自然なことだ。
ただ、その奥にあるものを見ようとしない人は多い。
自分の身体で起きていることなのに、どこか他人事のように扱う。
生活は変えたくない。
考え方も変えたくない。
でも症状だけは取ってほしい。
そういう姿を見ていると、こちらの中に疲れが生まれる。
なぜ、もっと見ようとしないのだろう。
なぜ、自分の見えている範囲だけで決めつけられるのだろう。
なぜ、身体も人生も、そんなに単純なものとして扱えるのだろう。
そんな疑問が湧く。
けれど、すべての人がそうではない。
わずかに、違う人たちがいる。
一割にも満たないかもしれない。
その人たちは、すぐに結論へ飛びつかない。
自分の不調を、ただの痛みとしてだけ見ない。
生活や思考や感情や環境を含めて、自分の身体を見ようとする。
「もしかしたら、自分の過ごし方にも原因があるのかもしれない」
「この症状は、ただの不調ではなく、何かのサインかもしれない」
「私は何を見落としていたのだろう」
そういう問いを持っている。
そこには余白がある。
余白とは、何でも受け入れる優しさのことではない。
むしろ、分からないものを分からないまま置いておける力のことだと思う。
すぐに決めつけない。
すぐに責めない。
すぐに答えを求めない。
観察する。
眺める。
待つ。
感じる。
その時間を持てる人には、身体の変化も入りやすい。
なぜなら治療とは、本来、こちらが一方的に何かを与えるものではないからだ。
身体が変わるには、本人の中に受け取る場所が必要になる。
こちらがどれだけ説明しても、相手の中に余白がなければ言葉は入らない。
どれだけ丁寧に触れても、本人が自分を見ようとしなければ、身体はまた同じ場所へ戻っていく。
結論を急ぐ人は、問題を外に置く。
観察できる人は、問題の中に自分も含めて見る。
この差は大きい。
「全部自分が悪い」ということではない。
そうではなく、自分では変えられないもの、相手の問題、環境の影響、自分が変えられる部分。
それらを分けて見ようとする力があるということだ。
人は、痛みや違和感をただの不快として処理することもできる。
けれど、それを自分を知る入口にすることもできる。
結論は、世界を狭くすることがある。
観察は、世界に奥行きを与える。
もちろん、結論が必要な場面もある。
判断しなければならない時もある。
選ばなければならない時もある。
けれど、結論だけで生きていると、見えなくなるものがある。
身体の声。
人の背景。
自分の偏り。
言葉になる前の違和感。
まだ形になっていない本当の原因。
それらは、急いで答えを出す人の前では姿を消してしまう。
私は、治療とは観察なのだと思う。
症状を観察する。
身体を観察する。
呼吸を観察する。
表情を観察する。
言葉の奥にあるものを観察する。
そして何より、その人が自分自身をどう見ているのかを観察する。
治すという行為の前に、見ることがある。
変えるという行為の前に、気づくことがある。
結論に急ぐ人は、早く終わらせようとする。
観察できる人は、そこから始めようとする。
その違いが、身体にも、人生にも現れるのだと思う。

