論理と余白
先日、大切な人と話をしていた時のこと。
付き合いは長い。
分かっているつもりでいた。
けれど、話をしている中で、自分はまだ相手のことを知らなかったのだと気づいた。
その時、二つの思いがあった。
一つは、まだ知ることができるという発見。
長く一緒にいても、まだ知らないことがある。
まだ触れていない思いがある。
まだ聞いたことのない言葉がある。
それは、少し嬉しいことでもあった。
そして、もう一つは、そのことに気づいていなかったことへの反省だった。
分かっているつもりになっていた。
知っているつもりになっていた。
相手はこういう人だと、どこかで形にしていた。
けれど、人はそんなに単純ではない。
正しいことを言えば伝わる。
原因を説明すれば納得する。
筋道を立てれば理解してもらえる。
そう思ってしまうことがある。
たしかに、論理は大切だ。
物事を整理する。
原因を考える。
無駄を減らす。
再現性を高める。
相手に分かりやすく伝える。
論理があることで、見えてくるものがある。
曖昧だったものに輪郭が生まれる。
混乱していたものが整理される。
進むべき方向が見えることもある。
だから、論理そのものを否定したいわけではない。
けれど、論理には限界もある。
論理は、物事を分ける。
分類する。
原因を探す。
枠をつくる。
それによって理解しやすくなる一方で、こぼれ落ちるものもある。
人の感情。
言葉になる前の違和感。
過去の経験。
傷ついた記憶。
守ってきたもの。
諦めてきたもの。
そうしたものは、簡単に一つの理由では説明できない。
人は、ロジカルではない。
というより、人は論理だけでは動いていない。
感情で動く。
不安で身を守る。
過去の経験から反応する。
損得で判断することもある。
けれど、損得だけでは割り切れないものも抱えている。
だから、何でも形や枠にはめれば分かるというものではない。
これはこういう症状。
この人はこういうタイプ。
原因はこれ。
つまり、こういうこと。
そうやって整理すると、分かったような気になる。
けれど、本当は分かったのではなく、扱いやすい形に置き換えただけなのかもしれない。
東洋医学も、ある程度の統計学として理解できる。
こういう体質の人には、こういう傾向がある。
こういう反応をする人には、こういう変化が起こりやすい。
長い時間をかけて積み重ねられてきた観察の体系。
そう考えれば、東洋医学は決して曖昧なものではない。
けれど、それで分かった気になると危うい。
気虚。
瘀血。
経絡。
気の流れ。
そうした言葉は、本来、目の前の人を理解するための道具だったはずだ。
それなのに、いつの間にか言葉の方が先に立つ。
「汚い血によって」
「経絡が詰まっていて」
「気が足りないから」
そんなふうに、見えないものを、さも見えているかのように扱ってしまう。
私は、そこに酔いたくない。
一方で、現代医学や科学の側に立てば、
再現性。
エビデンス。
根拠。
そうした言葉が並ぶ。
もちろん、それは大切なことだと思う。
けれど、再現性やエビデンスがあるからといって、世界のすべてを完全に理解し、完全に制御できているわけではない。
緻密な計算の末に打ち上げられたロケットも、爆発することがある。
空を飛ぶ飛行機でさえ、その仕組みを単純な一つの理由だけで説明することはできない。
分かっていることはある。
けれど、分かりきっているわけではない。
科学も、東洋医学も、どちらも人間が世界を理解するためにつくった枠でしかない。
その枠によって見えるものがある。
けれど、その枠によって見えなくなるものもある。
だから私は、東洋医学の言葉にも酔いたくない。
科学の言葉にも酔いたくない。
気虚と言えば分かった気になる。
瘀血と言えば説明できた気になる。
エビデンスと言えば正しくなった気になる。
再現性と言えば確かなものを持った気になる。
けれど、目の前にいる人は、その言葉の中には収まらない。
鍼を一本刺すための根拠。
たくさん刺すための理由。
語ろうと思えば、いくらでも語れる。
けれど、私はそんなことに酔いしれたくない。
もちろん、根拠がいらないということではない。
理由がないままでよいということでもない。
ただ、それを語ることで、自分が何かを分かっているような気になりたくない。
大切なのは、何本刺したかではない。
どんな理論で説明できるかでもない。
どれだけ正しいことを言えるかでもない。
いま、目の前の人に何が起きているのか。
その人は何を受け取れる状態なのか。
どこから先は、もう負担になるのか。
そこに気づけることだと思う。
治療者が、知識を話す。
理論を説明する。
原因を伝える。
身体の状態を分類する。
それ自体が、間違っているわけではない。
必要な説明はある。
言葉によって安心する人もいる。
自分の状態を知ることで、前に進める人もいる。
けれど、患者が本当に知りたいことは、そこではない場合がある。
この人は、本当に自分を見ているのか。
いまの自分の状態を感じ取ってくれているのか。
もう言葉を受け取る余力がないことに、気づいているのか。
患者は、そういうことを静かに感じている。
そのことに気づかずに話し続けると、患者は疲れる。
説明されすぎることで疲れる。
分からされることで疲れる。
整理されることで、自分の感覚から離れていく。
本当は、知りたいのではない。
ただ、感じ取ってほしいのだと思う。
いま、どれくらい疲れているのか。
どれくらい張りつめているのか。
どこまでなら受け取れるのか。
どこから先は、もう入ってこないのか。
そこに気づけないまま話し続けると、言葉は治療ではなくなる。
正しいことを言っているはずなのに、相手を疲れさせてしまう。
それは、正しさが悪いのではない。
正しさの扱い方を間違えているのだと思う。
正しさは、人を裁くためのものではない。
相手を枠にはめるためのものでもない。
自分の理解を押し当てるためのものでもない。
本来、正しさは、人がもう一度戻っていくための目印のようなものだと思う。
けれど、その目印ばかりを見せられ続けると、人は疲れてしまう。
今どこにいるのか。
なぜそこに立ち止まっているのか。
何を抱えて、そこまで来たのか。
そこを見ずに、正しい方向だけを示されても、人は動けない。
正しさだけを選び続ければ、よい人生になるのだろうか。
そんなことを、ふと考えることがある。
過ちから気づくことがある。
遠回りしたから見えるものがある。
無駄に思えた時間の中で、人はようやく自分の本音に触れることがある。
けれど、今はそうではない世の中になっているのかもしれない。
無駄は省かれ、効率が求められる。
損か得かで判断される。
正しいか間違っているかで、すぐに分けられる。
その中で、人の心までもが、どこか単純に扱われているように思う。
けれど、人の心はそんなふうにはできていない。
理由は、一つではない。
一つの症状に、一つの原因があるわけではない。
一つの痛みに、一つの答えがあるわけでもない。
眠れないこと。
疲れが抜けないこと。
胃腸が弱っていること。
呼吸が浅いこと。
首や肩がこわばること。
考えすぎていること。
我慢し続けてきたこと。
それらは別々に見えて、どこかでつながっている。
身体だけではない。
生活も、仕事も、人間関係も、気候も、食事も、過去の経験も、その人の考え方も、すべてが今の状態に関わっている。
そして、その人自身だけで完結しているわけでもない。
家族との関係。
職場の空気。
社会の流れ。
時代の価値観。
安心できる場所があるかどうか。
そうした、その人を取り巻く全体もまた、身体に影響している。
だから、理由を一つに絞りすぎてはいけない。
全体を見ること。
そして、その全体に関わる、さらに大きな全体があることに気づくこと。
そこに目を向けなければ、人を見ているようで、見ていないのかもしれない。
すべては分からない。
だからこそ、謙虚であるべきだと思う。
分からないから、曖昧でよいということではない。
分からないから、考えなくてよいということでもない。
分からないからこそ、丁寧に見る。
分からないからこそ、耳を澄ませる。
分からないからこそ、決めつけずに関わる。
私は、知ったかのような態度が嫌いだ。
それは、誰かを責めたいからではない。
これまでの自分の経験から、自分自身を律する意味でもそう思っている。
分かったつもりになることは、簡単だ。
言葉を知っている。
理論を知っている。
型を知っている。
経験もある。
そうなると、人はつい、目の前のことを分かったように扱ってしまう。
けれど、結局のところ、分からない。
人の身体も、心も、人生も、関係性も、ひとつの言葉で言い切れるものではない。
だから私は、断定したくない。
これはこうです。
あなたはこういう人です。
原因はこれです。
そう言い切ることで、安心することもあるのかもしれない。
けれど、その言葉の外側に、まだ見えていないものがある。
だからこそ、関わり合う中で、より知りたいと思う。
一度で分かるのではなく、
何度も触れながら、
何度も言葉を交わしながら、
その人の変化や揺らぎを見ていく。
知っている人ほど、もう一度見る。
慣れている人ほど、もう一度聞く。
近い人ほど、決めつけない。
治療者に必要なのは、知識だけではない。
説明力だけでもない。
正しさだけでもない。
相手の状態を感じ取る力。
言葉を置く間合い。
黙る勇気。
分かったつもりにならない余白。
そういうものが、いま欠けている人が多いように思う。
治療とは、正しさを押し当てることではない。
その人が、自分の感覚にもう一度戻っていくための場をつくること。
自分の身体に触れ直すための余白を守ること。
そう考えると、沈黙もまた治療なのだと思う。
何も言わない時間。
すぐに説明しない時間。
答えを急がない時間。
その静けさの中で、人はようやく自分に戻っていく。
論理は必要だ。
けれど、論理だけでは人は見えない。
論理によって見えるものがある。
そして、論理によって見えなくなるものもある。
だからこそ、論理を使いながら、論理に閉じ込めないこと。
正しさを持ちながら、正しさに酔わないこと。
分からないものを、分からないまま丁寧に扱うこと。
そこに、治療の誠実さがあるのだと思う。

