ワールドカップ日本代表の試合が終わった。
相手はブラジルだった。
前半、日本は1対0でリードしていた。
あのブラジルを相手に、日本が先に点を取り、前半を終えた。
もちろん、簡単な試合ではなかった。
押し込まれる時間もあった。
耐える時間も長かった。
それでも、選手たちは崩れなかった。
もしかしたら。
もしかしたら、本当に勝てるのかもしれない。
そう思わせるだけの時間が、そこにはあった。
けれど後半、1点を返された。
それでも、日本は折れなかった。
走り続け、身体を投げ出し、声を掛け合いながら、最後まで戦っていた。
そして、アディショナルタイム。
ブラジルに追加点を取られた。
その瞬間、私は自然と涙が流れてきた。
今回もベスト16の壁を乗り越えることができなかった。
そして、日本代表が掲げていた優勝という目標も、手に入れることはできなかった。
正直なところ、優勝はできないということは、薄々わかっていた。
世界との差はまだある。
ブラジルという相手を前にすれば、その現実は嫌でも感じる。
それでも、選手も監督も、関係者も、本気だった。
本気でそこを目指していた。
本気で勝とうとしていた。
本気で、日本サッカーの歴史を変えようとしていた。
そのことは、十分に伝わってきた。
だからこそ、胸を打たれたのだと思う。
私は、優勝できると信じ切って泣いたのではない。
勝てなかったことだけが悲しくて泣いたのでもない。
届かないかもしれない場所へ、本気で向かっていた人たちの姿に、自然と涙が流れたのだと思う。
このことについては、後日、また別の角度から書いてみたい。
いまはただ、あの試合を観て自然と涙が流れたこと。
その理由だけを、ここに残しておきたい。
試合後、いまだにネット上では戦犯探しが続いている。
誰のミスだったのか。
誰を代えるべきだったのか。
なぜ、あの判断をしたのか。
負けた理由を探すことは、悪いことではない。
検証は必要だと思う。
次に進むためには、見直さなければならないこともある。
けれど、それがいつの間にか、誰かを責めることに変わっていく。
選手を責める。
監督を責める。
一つの場面だけを切り取り、そこにすべての敗因を押しつける。
それは、日本だけの話ではない。
同じアジアの国でも、同じようなことが起きている。
本気で戦った人たちのあとに、本気で責める人たちが現れる。
その光景を見ていると苦しくなる。
日本人のもともとの気質もあるのだろう。
長い間、この国には儒教的な価値観が根づいてきた。
年長者を敬うこと。
集団の和を乱さないこと。
役割を果たすこと。
迷惑をかけないこと。
間違えた者は反省すべきだということ。
もちろん、それらすべてが悪いわけではない。
むしろ、その価値観があったからこそ、日本人は礼儀や秩序、責任感を大切にしてきたのだと思う。
けれど、その一方で、失敗した人を許しにくい空気も生まれた。
誰かが間違えたとき。
誰かが期待に届かなかったとき。
誰かが集団の夢を途切れさせたように見えたとき。
私たちはその人を責めることで、気持ちの置き場を探してしまう。
敗北という現実を受け止めることが苦しいのだろう。
だから、誰か一人に理由を背負わせたくなる。
誰か一人を責めることで、複雑なものを簡単に理解した気になってしまう。
そのような見えない圧力の中で、私たちは生きているのだろう。
失敗してはいけない。
迷惑をかけてはいけない。
期待に応えなければならない。
誰かの足を引っ張ってはいけない。
そうした空気は、はっきりと言葉にされるわけではない。
けれど、家庭の中にあり、学校の中にあり、職場の中にあり、社会の中にある。
そしていつの間にか、自分の中にも入り込んでいく。
だから人は、誰かの失敗を見たときに、ただ見ていられなくなるのかもしれない。
責めることで、自分は安全な側にいると思いたくなる。
裁くことで、自分は間違っていないと思いたくなる。
誰かに責任を背負わせることで、この曖昧で複雑な不安を、少しでも片づけたくなる。
けれど、それは本当に前に進むための態度なのだろうか。
匿名性が通じる世界に入った瞬間、普段は抑え込まれていたものが外へ出てくる。
誰かを責める。
誰かを裁く。
誰かの失敗を探す。
誰かの判断を断罪する。
まるで、日常では抑えられていた感情が、ネット上で一気に解放されるかのように。
そこでは、自分の名前も顔も見えない。
相手の人生も、積み重ねも、背負ってきた時間も見えない。
見えているのは、切り取られた一場面だけ。
そして、その一場面に対する自分の感情だけだ。
だからこそ、言葉は簡単に鋭くなる。
本来なら、目の前にいる相手には言えないことも、匿名の世界では言えてしまう。
その人の努力も、本気も、悔しさも置き去りにしたまま、好きなことをつぶやけてしまう。
だが、そこに「ありがとう」という言葉は少ない。
本気で戦った人たちに対して、
最後まで走り切った人たちに対して、
勝てなかった悔しさを誰よりも抱えている人たちに対して、
まず向けられるべき言葉は、責める言葉なのだろうか。
もちろん、検証は必要だ。
批判もあっていい。
代表である以上、結果について問われることも避けられない。
けれど、その前にあるはずのものがある。
ありがとう。
お疲れさま。
よく戦った。
そうした言葉が置き去りにされたまま、先に誰かを責める言葉が並んでいく。
その光景に、私は寂しさを感じる。
彼らは、人生の多くの時間をサッカーに費やしてきた。
幼い頃からボールを蹴り、競争の中で生き残り、若い段階で海外に出て、言葉も文化も違う場所で、自分の居場所を作ってきた。
そして今、国を背負って戦っている。
その重さを、私たちはどれほど想像できているのだろうか。
私は、日本人が明治時代からブラジルやアメリカに渡り、異国の地で信用を勝ち取ってきた歴史を知っている。
最初から受け入れられたわけではない。
理解されたわけでもない。
偏見もあり、孤独もあり、見えない壁もあったはずだ。
それでも、日々の振る舞いと働きによって、少しずつ信用を積み重ねてきた。
そこに至るまでには、何年も、何十年もかかっている。
異国の地で信用を得るということは、簡単なことではない。
一度の活躍だけで認められるわけではない。
一つの結果だけで信頼されるわけでもない。
日々の積み重ね。
約束を守ること。
自分に与えられた役割を果たすこと。
真面目に向き合うこと。
誠実であろうとすること。
そうした勤勉さや真面目さ、誠実さが、今日の日本を作り上げてきたのだと思う。
私は、そのことを誇りに思っている。
そして、深く尊敬している。
いまの日本代表の選手たちも、きっとそうなのだと思う。
クラブで結果を出し、
監督に信頼され、
仲間に認められ、
その上で日本代表として呼ばれ、
世界の舞台で国を背負う。
その背景を見ずに、たった一つのミスや一つの判断だけで、簡単に責めることなどできるのだろうか。
ましてや人格否定をすることも許されるのだろうか。
彼らが積み重ねてきた時間は、私たちが画面越しに見ている90分だけではない。
その90分の後ろには、人生がある。
国を背負い、自分たちよりも大きな体格の外国人選手たちとぶつかり合う。
そして、90分間走り続ける。
その姿を見ているうちに、私の内側から、日本人としての自覚のようなものが溢れてきた。
不思議な感覚だった。
普段、私はことさらに国を意識して生きているわけではない。
日本人であることを、強く言葉にすることもあまりない。
けれど、あの試合を観ていると、忘れていた感覚が戻ってくるようだった。
この小さな島国から、世界に出ていく人たちがいる。
言葉も文化も違う場所で居場所を作り、信用を勝ち取り、そして国を背負って戦っている人たちがいる。
そのことが、たまらなく誇らしかった。
勝ったからではない。
結果を残したからだけでもない。
自分よりも大きな相手に怯まず、
最後まで走り、
倒れても立ち上がり、
日本という国を背負って戦っている。
その姿に、私は日本人であることを思い出させてもらったのだと思う。
この感覚を、私は忘れていた。
そんな若い選手たちが、懸命に走り続けていた。
その姿を見て、なぜ感動しないのだろうか。
勝敗だけで判断は出来ない。
なぜ、まず「ありがとう」と思えないのだろう。
勝負の世界では、勝ったものが正しい。
それはわかっている。
どれだけ努力しても、
どれだけ準備しても、
どれだけ懸命に走っても、
負ければ届かなかったという事実だけが残る。
勝負の世界は、残酷だ。
結果がすべてだと言われれば、その通りなのかもしれない。
代表である以上、批判も受ける。
検証もされる。
責任も問われる。
けれど、それでも私は思う。
結果だけで、人のすべてを見てはいけない。
勝てなかった試合の中にも、確かに残るものがある。
届かなかった姿の中にも、人の心を動かすものがある。
敗れた瞬間にこそ、その人たちが何を背負ってきたのかが見えることがある。
勝ったものが正しい。
けれど、負けたものが間違っていたわけではない。
その違いを、私たちはもう少し丁寧に見つめてもいいのではないか。
日本は豊かな国だ。
ものは溢れ、生活は便利になり、世界の中でも安全な国だと言われている。
けれど、幸福度は低い。
それはなぜなのだろうか。
私は、こういった部分に、その理由があるのかもしれないと思う。
ロジカルに考えれば、敗因はわかるのかもしれない。
あの場面で誰がどう動くべきだったのか。
なぜ、あの選手を起用したのか。
なぜ、あの判断をしたのか。
何が足りなかったのか。
考えれば、いくつもの答えは出てくるのだろう。
けれど、その答えが出たときに、誰が幸せになるのだろうか。
敗因を見つけた人は、正しさを手に入れるのかもしれない。
自分はわかっていたと、安心できるのかもしれない。
誰かを責めることで、負けた悔しさの置き場を作れるのかもしれない。
けれど、その正しさは、誰を救うのだろう。
そして、その理由を勝ち取ったとき、誰が幸せになり、誰が不幸になるのだろう。
もちろん、検証は必要だ。
次に進むために、見直すべきことはある。
けれど、検証と断罪は違う。
次へ進むための問いと、誰かを傷つけるための正しさは違う。
私は、人を傷つけたいわけではない。
誰かを責めたいのでもない。
正しさを振りかざしたいのでもない。
負けた理由を見つけて、誰かに背負わせたいのでもない。
ただ、より良い未来を作るために、前向きな話し合いをしたい。
何が足りなかったのか。
何を変えていけばいいのか。
どうすれば、次につながるのか。
そうした問いは、必要だと思う。
けれど、その問いは、人を傷つけるために使われるべきではない。
本気で戦った人たちの時間を、踏みにじるようなものであってほしくない。
悔しさを抱えている人たちに、さらに痛みを重ねるものであってほしくない。
検証は、未来のためにある。
断罪は、誰かの気持ちを処理するためにある。
その違いを、私たちは忘れてはいけないのだと思う。
私は、誰かを不幸にしてまで、正しさを勝ち取りたいとは思わない。
それよりも、まず感謝を置きたい。
そして、その上で、次に何ができるのかを考えたい。
人を傷つけるためではなく、
より良い未来を作るために。
私は、そのための言葉を選びたい。
日本代表として戦ってくれてありがとう。
最後まで走り続けてくれてありがとう。

