「命を大切にすること」

Xを読んでいて、タイで出家修行をしたというお坊さんの言葉が目に留まった。

仏の教えというものには、以前から興味がある。

というのも、子どもの頃から、お寺とのつながりが深い町で育ったからかもしれない。

季節ごとの行事があり、法要があり、お坊さんの姿が日常の風景のなかにあった。

また、父が朝晩、仏壇にお供えをして静かに手を合わせる姿を見て育ったことも大きいのだろう。

私にとって仏教は、特別なものというよりも、暮らしのすぐそばにあるものだった。

例えば、子どもの頃、指にトゲが刺さると、祖母は巣鴨のとげぬき地蔵のお札を水に浮かべて飲ませてくれた。

今思えば、医学的な根拠があるわけではないのかもしれない。

それでも、不思議と安心したことを覚えている。

効いたかどうかは分からない。

けれど、誰かが自分の痛みを気にかけ、良くなってほしいと願ってくれること自体に、人を癒やす力があるのかもしれない。

今となってみては、そんなことを考える。

話は戻るが、仏教には「五戒」というものがあるそうだ。

不殺生戒(ふせっしょうかい)、不偸盗戒(ふちゅうとうかい)、不邪淫戒(ふじゃいんかい)、不妄語戒(ふもうごかい)、不飲酒戒(ふおんじゅかい)。

仏教を深く学んできたわけではないので、詳しく説明することはできない。

ただ、簡単にまとめると、

「命を大切にすること」
「他人のものを奪わないこと」
「人を傷つけるような欲望に振り回されないこと」
「嘘をつかないこと」
「心を乱し、理性を失うものに支配されないこと」

といった教えになるのだろう。

こうして並べてみると、特別なことを言っているわけではない。

むしろ、人が人として生きていく上で、ごく当たり前でありながら、最も難しいことが書かれているようにも思える。

仏は、なぜこれらを五戒として残したのだろうか。

現時点では、私にはその答えは分からない。

仏教を体系的に学んできたわけでもないし、悟りを開いたわけでもない。

ただ、四十年以上生きてきて思うのは、人は放っておくと、どうしても自分本位になってしまう生き物なのだということだ。

怒りに支配されることもある。

欲に流されることもある。

自分を守るために嘘をついてしまうこともある。

そして、その多くは、自分だけでなく、周囲の人も傷つけてしまう。

そう考えると、五戒とは人を縛るためのものではなく、人が人として生きるための最低限の道しるべなのかもしれない。

私は、これまでの臨床経験から、人は思っている以上に、感情や執着の影響を受けながら生きているのだと感じている。

怒りや悲しみを抱え続ければ、身体は硬くなる。

不安や恐れが続けば、呼吸は浅くなる。

そして、自分でも気づかないうちに、心の問題が身体に現れていることも少なくない。

そう考えると、五戒とは単なる戒めではなく、自分自身を見失わないための知恵なのかもしれない。

だからといって、「仏教を学んだ方が良い」と言いたいわけではない。

これだけ情報があふれている時代だ。

人が生きる指針を見つける方法は、他にもたくさんあるのだろう。

ただ、二千五百年以上も前に説かれた教えが、なぜ今なお残り続けているのか。

その視点を持って眺めてみると、気づかされることも少なくない。

不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不飲酒戒。

例えば、不殺生戒(生き物を殺さない)とは、どのような解釈ができるだろうか。

また、不偸盗戒(与えられていないものを取らない)とは、何を意味しているのだろうか。

そういった角度から物事を眺めてみると、学ぶことは多い。

不殺生戒は、単に生き物を殺さないという意味だけではなく、命そのものを大切にするという見方もできる。

それは、他の生きとし生けるものを尊重し、暴力や戦争を避け、平和の実現に努めることでもあるのだろう。

そして、そこには肉体的な暴力だけではなく、心理的な暴力や言葉による暴力も含まれるのかもしれない。

一つの角度からでは見えないものも、視点を変えることで見えてくることがある。

私は、この文章を書きながら、娘のことを思い返していた。

親という立場から、知らず知らずのうちに心理的な圧力をかけていたことを反省している。

先日、偶然、娘の幼い頃の写真を目にした。

そこには、屈託のない笑顔でこちらを見つめる娘がいた。

その笑顔は、成長とともに少しずつ姿を変えていった。

寂しさを感じる一方で、ふと、娘が確かに成長しているのだという事実に、深い喜びも湧き上がってきた。

親である私もまた、子どもと共に成長していかなければならないのだろう。

こんなことを、先人たちもまた思い、感じていたのかもしれない。

そして、「そうなるなよ」と、後の時代に教えを残したのだろう。

けれど、人は繰り返す。

だからこそ、その経験から何を学ぶのかが問われているのかもしれない。

そんなことを思った。

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