今日は、
自分の言葉の呪いから解放される、という話です。
きっかけは、
山口周 さんのラジオで取り上げられていた
「社会構成主義」という考え方でした。
以前、「あいまい」について書いたとき、
「〜でなければならない」という定義が、
自分を傷つけることがある、という話をしました。
では、その“定義”はどこから来るのか。
私たちは、
多くのことを「分かっているつもり」で生きています。
けれど実際には、
世の中のほとんどは曖昧なものです。
「現実」と思っているものも、
社会の中でつくられている。
正義や悪、道徳も同じです。
たとえば、1+1は2。
誰もが知っていることです。
けれど、泥だんごをひとつとひとつ合わせると、
できるのは“ひとつ”。
前提が変われば、
答えも変わる。
正しさとは、
その前提の上に成り立っているものです。
これが、社会構成主義の考え方です。
鍼灸が効くか、効かないか。
科学か、非科学か。
そうした議論も、
どの前提に立つかで変わります。
どちらが正しいかではなく、
なぜそう考えるのか。
そこに目を向けること。
そうしていくと、
多くの考えには確固とした根拠がないことに気づきます。
ただ、自分がそう思っているだけ。
それだけのことも多いのです。
山口さんは、
「〜べき」「〜でなければならない」は
呪いのようなものだと言います。
その言葉は、
自分を縛り、
ときに他人も縛ります。
もしそうした言葉が浮かんだときは、
「なぜ自分はそう思うのか」
そこに問いを向けてみる。
そして、
そうでない現実があったとしても、
「そういうこともある」
そう思えたとき、
少しだけ楽になります。
私たちの価値観は、
外側からの影響でできています。
だから、
絶対ではありません。
電車が遅れることも、
ゆで卵がうまく剥けないことも、
ただそうなった、というだけのこと。
そこに意味をつけているのは、
自分自身です。
その価値観を、
他人に当てはめる必要はあるのか。
善か悪か、
正しいか間違いか。
その問い自体が、
曖昧なものなのかもしれません。
鍼灸についても同じです。
科学的でないと思うなら、
受けなくてもいい。
科学的であっても、
受けない人は受けない。
最終的には、
自分にとってどう感じるか。
それで選んでいいのだと思います。
曖昧であること。
それは、不完全さではなく、
余白のようなものです。
たとえば、愛。
目の前の人に対して、
その定義を言葉にできるでしょうか。
きっと、はっきりとは言えない。
けれど、確かにそこにあるもの。
身体の変化も、
それに似ているのかもしれません。
目には見えないけれど、
感じ取れるもの。
その曖昧さの中に、
大切なものがある。
そんなふうに思うのです。

