治療を「数値化」するという誘惑

慢性は、時間でできている。

だから、
時間でしかほどけない。

そう書いたあとで、
どうしても触れておきたい違和感がある。

それは、

治療を「数値化」するという発想だ。


ある図では、こう示されている。

「今の状態が100だとして」
「当院の治療1回で −50」
「他の治療の効果は −1 か −2 程度」

一見、とても分かりやすい。

けれど、その瞬間に
何が起きているのだろう。

痛みが、単一の指標に置き換えられる。
治療が、減算のゲームになる。

そして、
他の治療は
極端に小さく見積もられる。


慢性痛を
「コリの量」というひとつの尺度で定義し、

それを
削っていく競争にする。

その瞬間、
身体の複雑さは
きれいに切り落とされる。

痛みは、
本当に「100」なのだろうか。

その数字は、
誰が決めたものなのだろう。


数値は分かりやすい。

だが、
分かりやすさは
ときに思考を止めてしまう。


さらに強いのは、
この比較の構図だ。

自院は圧倒的。
他院はほとんど意味がない。

その世界観が、
図として提示される。

そこに私は、
少しだけ硬さを感じる。


医療や施術の世界は、
本来もっと多様なものだ。

身体の反応は個別的で、
ある人には合う方法が、
別の人には合わないこともある。

アプローチは複数あり、
それぞれが
部分的な真実を持っている。

それを一列に並べて
優劣で整理した瞬間、

身体の個別性は
静かに置き去りにされてしまう。


慢性痛を扱っていれば、
分かることがある。

痛みは
単純な減算ではない。

波がある。
ときには悪化もする。
心理も絡む。
生活も絡む。

時間の中で
揺れ続けている。


それでもなお、

「1回で50は減る」

と断定する。

そこには
身体の複雑性を
単純化しようとする力が働く。

私の違和感は、
臨床の現場から来ている。

現場は、
そんなに一直線ではない。


本質的に引っかかっているのは、
強い言葉そのものではない。

治療が
構造の理解ではなく、
優劣の演出になってしまうこと
だ。

治療哲学ではなく、
マーケティングの構図が
前に出てしまう。

それは傲慢というより、

どこか
思想の浅さへの違和感に近い。


身体は、
勝ち負けで語る対象ではない。

もう少し言えば、

「悪さ=コリの量」

という還元主義も、
私が見ている身体とは少し違う。

身体には、

余白がある。
構造がある。
時間がある。
文脈がある。
歴史がある。

それを

「100 → 0」

という直線に置き換えるとき、
身体は平面になってしまう。

しかし慢性とは、
立体的な時間の塊だ。


それでも、
数字は魅力的だ。

分かりやすく、
安心できる。

不安を抱えた人ほど、
明確な答えを求める。

だから数値化は広がる。

それ自体を
責めるつもりはない。

ただ、

身体は本当に
そこまで単純なのだろうか。

その問いだけは、
持ち続けていたい。


ここで大切なのは、
誰かを否定することではない。

私ができることは、

他院を下げることではなく、
身体の複雑さを提示することだ。

数字ではなく、構造を。
優劣ではなく、文脈を。
即効性ではなく、時間を。


慢性は、
減算ゲームではない。

それは、

時間の再編集だ。

私はその編集に、
静かに向き合っていきたいと思っている。

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