いつもエッセイを読んでくださり、ありがとうございます。
前回のエッセイでは、「過去は、すでに完了している」という話を書きました。
けれど、臨床の現場に立っていると、多くの人は過去を完了したものとして受け止められずにいます。
誰かに言われた一言。
失った人。
裏切られた記憶。
「あのとき、こうしていれば」という後悔。
身体は現在を生きていても、心だけが過去に留まり続けている。
私は、そのような方々と何度も出会ってきました。
昨日、施術をしながら、ふと自分自身のことを考えていました。
私はもともと、サッカーやバスケットボール、柔術をしていました。
怪我をすることも多く、整骨院や整形外科へ通うなかで、スポーツトレーナーという仕事に憧れるようになります。
振り返れば、本来はスポーツの世界へ進んでいたのかもしれません。
海外のチームでトレーナーとして働く自分を想像したこともありました。
けれど、人生は思い描いた通りには進みません。
兄の勧めで介護福祉を学び、人を一人の存在として尊重するという倫理観に触れました。
そして、恩師との出会いが、私を鍼灸の世界へ導いてくれました。
私は、ごく普通の鍼灸師になろうとしていました。
解剖学や生理学を学び、筋肉や関節を診る。
身体を整えることが仕事だと思っていました。
しかし、患者さんと向き合えば向き合うほど、一つのことに気づきます。
身体と心は、切り離して考えることができないということです。
どれだけ身体を整えても変わらない人がいる。
反対に、生き方や人間関係が変わったことで、身体まで変わっていく人もいる。
私は精神世界に興味があったから、この考えに至ったわけではありません。
臨床が、私にそう教えてくれたのです。
ある日、一人の患者さんのことを恩師に相談したことがあります。
私は病名だけを伝え、その方の個人情報は何一つ話していませんでした。
すると恩師は、その方の年齢や体格を言い当て、こう言いました。
「その方は、新しい恋をしないと治らない。」
恩師は、不思議な方です。
こうした出来事は、恩師にとって特別なことではありませんでした。
けれど、私が学んだのは、不思議な力ではありません。
病気は、身体だけの問題ではないということです。
人が歩んできた人生。
忘れられない記憶。
言葉にならなかった感情。
そうしたものもまた、身体に影響しているのではないか。
私は、そう考えるようになりました。
私はスピリチュアルを専門にしているわけではありません。
西洋医学も学びました。
東洋医学も学びました。
そのどちらも、私にとって大切な土台です。
けれど、病気というものは、一方向からだけ見えるものではありません。
筋肉や神経だけでは説明できないことがあります。
「気」という言葉だけでも説明できないことがあります。
長年、臨床で考え続けた結果、私は自然と、身体、心、そして魂や霊性と呼ばれるような領域まで考えるようになりました。
それを仕事にしたいわけではありません。
むしろ、人という存在は、自分が思っていた以上に複雑なのだと気づいただけなのです。
例えば、私の祖父は亡くなるまで畑で土に触れていたい人でした。
けれど、「危ないから」という周囲の善意によって、その生きがいは失われていきました。
そこに悪意はありません。
しかし、人は相手を思っているつもりでも、自分の価値観で相手の人生を見てしまうことがあります。
患者さんの悩みも同じです。
苦しみの多くは、人との関係の中で生まれています。
恋人。
夫婦。
親子。
友人。
職場。
そして、その価値観や傷つきは、ときに世代を超えて受け継がれていきます。
以前、ご縁があって「エーテルカット」という考え方を教わる機会がありました。
私はその世界に興味を持ったわけではありません。
ただ、一つだけ心に残ったことがあります。
一日の終わりに、その日出会った人とのコードを切るという考え方です。
私は、それを超常的な意味ではなく、「その日の出来事を翌日に持ち越さない」ということなのだと受け取りました。
過去を分析することはできます。
原因を探すこともできます。
けれど、それは解説であって、解決ではありません。
必要なのは、自分を責めることではない。
新しく何かを学び足すことでもない。
アンラーニングです。
これまで身につけてきた思い込み。
「こうあるべき」という価値観。
誰かから受け取った悲しみ。
それらを少しずつ手放していく。
そうすると、新しい自分になるのではありません。
本来の自分が、少しずつ現れてきます。
ここまで読んで、「普通の鍼灸師ではない」と感じた方もいるかもしれません。
そうかもしれません。
でも、それは私が特別だからではありません。
人という存在を理解しようとすればするほど、一つの学問だけでは足りないと気づいてしまっただけなのです。
正直に言えば、分からないことばかりです。
だから私は断定したくありません。
「これが正解です」と言いたくありません。
ただ、一つだけ否定したくないことがあります。
私たちは、自分の意思だけで人生を選んでいるわけではないのかもしれない、ということです。
なぜ、その人と出会ったのか。
なぜ、その道を選んだのか。
なぜ、あの出来事が人生に起きたのか。
そこには、自分では説明しきれない何かが働いているように感じることがあります。
それが神様なのか。
運なのか。
ご縁なのか。
私には分かりません。
だから、断定はしません。
けれど、その可能性を否定したくもありません。
私は、それを肯定したい。
人も。
人生も。
そして、自分自身も。

