当たり前というものはない

当たり前、というものは何もない。

最近、そんなことを考えるようになった。

私は目が見える。手があり、足がある。雨風をしのげる家があり、好きな時に、好きなものを食べることができる。

それらは日常の中にあるものだから、つい当たり前のように思ってしまう。

けれど、その当たり前は、実際には当たり前ではない。

仏教では「無常」や「有難」という言葉があるらしい。

すべては変わり続けていて、今あるものが、明日も同じようにあるとは限らない。

そして、有ることが難しいものだからこそ、「有難い」と言うのだという。

そんなことを考えていた時、中学生の頃の部活の顧問の言葉を思い出した。

「弁当を作ってくれること、お風呂を沸かしておいてくれること、ご飯が食べられることを、当たり前だと思っていないか?」

今でも、その言葉を覚えている。

当時の私は、その意味をどこまで理解していたのだろう。

練習で疲れて帰れば、ご飯がある。お風呂が沸いている。翌日には弁当が用意されている。

それをどこかで、当たり前のように受け取っていたのかもしれない。

けれど本当は、その一つひとつに、誰かの時間があり、手間があり、思いがあった。

家に帰れること。
食事ができること。
身体を休められること。
明日を迎える準備をしてくれる人がいること。

それは、とても有難いことの連続だったのだと思う。

その感覚が抜けてしまうと、人は他者への要求が大きくなる。

家族だからやってくれて当然。

友人だから分かってくれて当然。

同僚だから助けてくれて当然。

お金を払っているのだから、相手が応えてくれて当然。

けれど、本当にそうなのだろうか。

誰かが何かをしてくれることは、本来、当たり前ではない。

そこには、その人の時間があり、体力があり、心がある。

それを見落とした時、人は感謝を忘れ、要求だけが大きくなっていくのだと思う。

いま、この瞬間にも世界では戦争がある。

住む場所を失う人がいて、家族と離れ離れになる人がいる。

そして、いまこの瞬間に、失われる命もある。

その上で、私は今日も暮らしている。

もしかしたら、私は生まれていなかったかもしれない。

目が見えることも、手があり、足があることも、雨風をしのげる家があることも、好きな時に、好きなものを食べられることも。

すべては、とても有難いことの連続なんだと思う。

当たり前というものは無い。

それは、いつもそこにあるようでいて、実際にはとても壊れやすいものなのだと思う。

健康も、暮らしも、仕事も、人間関係も、命も。

ずっと続く保証など、どこにもない。

だからこそ、いまあるものを粗末にしてはいけない。

食べることも、眠ることも、働くことも、人と会うことも、身体を使うことも、生きることそのものも。

それらを雑に扱ってはいけないのだと思う。

生きることを大切にしないと。

生きていた人も、いまを生きている人も。

そのすべてに、静かに手を合わせるように。

当たり前と思わないこと。

それは、ただ感謝するということではない。

自分の足元を見失わないための祈りであり、いまここにある命を、粗末にしないための戒めなのだと思う。

当たり前というものはない。

そのことを、時々でいいから思い返してみてはいかがだろうか。

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