「根本治療をしています」
治療の現場では、ごく当たり前のように使われる言葉です。
症状ではなく原因にアプローチする。
表面ではなく本質を整える。
その響きは誠実であり、力強く、そして魅力的です。
しかし本当に、“根本”は存在するのでしょうか。
身体は単純な因果で動いているわけではありません。
糖尿病も、高血圧も、肩の炎症も、
ひとつの原因だけで成立しているわけではない。
体質、生活習慣、思考の傾向、環境、年齢、
そしてこれまでの時間の積み重ね。
無数の要素が絡み合い、
ある瞬間に「症状」として現れる。
それを指して
「ここが根本です」と言い切ることは、
あまりにも単純化しすぎてはいないでしょうか。
ではなぜ、私たちは“根本”という言葉を使うのか。
それは患者を安心させるためかもしれない。
しかし同時に、施術者自身を安心させるためでもある。
原因はここにある。
治療法はこれだ。
あとは任せてください。
そう言い切れる構図は、とても美しい。
そして、とても分かりやすい。
けれど現実は、もっと曖昧で流動的です。
一度の施術で変化することもあれば、
何度通っても再発することもある。
月に一度より二度、二度より三度の方が効果が高いのは、
単純に身体への介入回数が増えるからかもしれない。
そこに奇跡はない。
道理があるだけです。
「根本」という言葉は、
施術者の欲望を覆い隠す便利な言葉かもしれません。
選ばれたい。
信頼されたい。
価値ある存在でありたい。
その無意識の願いが、
“本質を治す”という表現に姿を変えている可能性はないでしょうか。
もし回復の主体が患者の身体そのものだとするなら、
施術者は主役ではありません。
環境を整え、可能性を広げる存在にすぎない。
根本があるとするなら、
それは一点の原因ではなく、
その人のこれまでの人生そのものです。
家系も、思考も、生活も、選択も。
すべてが折り重なった結果として、
いまの身体がある。
それを前にして、
「私は根本を治している」と言い切ることは、
どこか傲慢にも感じられます。
それでも私は治療を続けます。
幻想を掲げるためではなく、
目の前の身体の変化に誠実であるために。
“根本”という言葉に寄りかかるのではなく、
複雑さを複雑なまま引き受けるために。
もしかすると、
根本という言葉そのものが幻想なのかもしれません。
しかしその幻想を手放したとき、
はじめて本当の意味で、
人の身体と向き合えるのではないでしょうか。

