いま趣味でバスケットボールをやっています。
週に何度かさまざまな場所で参加させてもらうのですが、それぞれのグループで考え方や取り組み方が違うことに気がつきました。
それには「規則と自由」という言葉が当てはまるのですが、ある程度の規則がないと人は動かず、自由を与えると規律がなくなるというものです。
なぜこのようなことが考えられるかというと、私たちは農耕民族としての特徴をもっており、村という集団生活によって行動したことがあげられます。また仏教や儒教によって個人の自由よりも組織の和を優先するという考えが大きく影響しているのでしょう。
つまり村単位では、長老会、有力者、地主といったものがいたわけで、その上には大名や御家人がいました。
これらの歴史背景によってトップダウン(決定権が上位の立場の人にある)に慣れてしまっていることが想像できるのですが、私は病気の人をみているとこのような形による影響を感じます。
何の話か。
私は医療は宗教と親和性が高いと考えているのですが、それはこれらの構造と似ている気がするのです。
つまり、身体的制約や経済的不利、社会的孤立、選択の制限がある人、つまり病気を患った人は心理的に救われたいという意識により自らの感情をコントロールできなくなってしまいます。
これは日本人の順応性の高さもあるのですが、その背景には日本人の特徴が大きいと考えられます。
私がSNSで優位主張や支配的態度を取りたくない理由は、患者よりも優位な立場にいる施術者が感情をコントロールできない状況にいる人に対して、支配欲、権力欲、優越欲により自己顕示することに違和感があるからです。
それは「地震雲」「2025年7月の大災難」にも言えます。
当たればもてはやされ、注目を浴びて自己顕示を示します。
けれど外れても誰も気にすることはありません。
世間に対して恐怖を誘導したにも関わらず罪に問われることはないのです。
それは鍼灸院や整体院のホームページに記載されている内容にも同じことが言えます。
ですから私は鍼灸がいかに優れているかという個人の感想は載せません。
やはり病気を抱える人が対象になりますから、不安を煽ってコントロールするというのは邪な考えであり、正道から外れていると思うのです。
私が患者さんに鍼灸をおこなううえで大切にしている考えは、私が患者さんを支配しないということであり、患者さんの自発性を促す、余白を与えるということ。
あなたの人生はたった一度の人生ですから、他人に左右される必要はないと思うのです。
そのためには「他人軸」から「自分軸」であること。
責任は他者に預けるのではなく、自分のためにあるものです。
だから私は鍼灸の話をしません。
鍼灸はこのような働きがあるという話だけを書くようにしています。
専門性の高い話は鍼灸初学者や学生のために、このような内容は読んでいる人の健康意識を高めるために書いています。
ですから優位主張や支配的態度は必要なく、対等でありたいと思います。
規則は大切だけれど自由を失い、自由が与えられると規則を失うなかで、そのバランスを保つには軸をもつこと。
つまり「道」から逸れないことです。
バスケットしかり、仕事しかり、目の前にはあなたを支配して優位主張をしたい人が必ずいます。
「丁寧な暮らし」を提案する企業が実際にはブラック企業だったり道から逸れていたりします。
時代は大きく変わってきていますから、何かに憧れたり、何かと同じでないと不安になる必要はありません。
何かの形に拘るのではなく、まずは自分を大切にしてみてください。
なぜ私は鍼灸の話をしないのか
