「根本治療をしています」
治療の現場では、当たり前のように使われる言葉です。
症状ではなく原因へ。
表面的ではなく、本質へ。
その響きは誠実で、力強く、どこか安心感を含んでいます。
けれどふと、立ち止まることがあります。
本当に、“根本”と呼べるものは存在しているのだろうか、と。
身体は、単純な因果でできていません。
糖尿病も、高血圧も、慢性的な痛みも。
ひとつの原因だけで説明できるものではない。
体質や生活習慣。
思考の傾向や、置かれてきた環境。
そして時間の積み重ね。
それらが静かに絡み合い、
あるとき一つの現象として立ち上がる。
それを「症状」と呼んでいるに過ぎません。
だとすれば、
「ここが根本です」と言い切ることに、
どこか無理があるようにも感じられます。
複雑なものを、わかりやすく切り分ける。
その瞬間に、何かが取りこぼされているかもしれない。
それでも私たちは、“根本”という言葉を使います。
なぜか。
患者の安心のため。
という側面は確かにあるでしょう。
けれど同時に、
施術者自身のためでもあるのかもしれません。
原因はここにある。
方法はこれでいい。
そう言い切れる構図は、美しく、迷いがない。
しかし現実の身体は、もう少し曖昧です。
一度の施術で変わることもあれば、
何度繰り返しても戻っていくこともある。
回数を重ねることで変化が深まるのも、
特別なことではなく、ごく自然なことです。
そこにあるのは、奇跡というより、
ただの積み重ねです。
「根本」という言葉は、
ある種の願いを含んでいるのかもしれません。
信頼されたい。
選ばれたい。
価値を届けたい。
その静かな欲求が、
“本質を治す”という表現に形を変えている。
そんなふうにも見えます。
もし回復の主体が、
患者自身の身体にあるのだとしたら。
施術者は、主役ではありません。
整えること。
引き出すこと。
変化の余地を残すこと。
そのために関わる存在です。
根本があるとするなら。
それは一点の原因ではなく、
これまでの積み重ねそのものなのかもしれません。
家系も、思考も、生活も、選択も。
すべてが折り重なった結果として、
いまの身体がある。
その前に立ったとき、
「私は根本を治している」と言い切ることに、
わずかな違和感が残ります。
それでも、治療は続いていきます。
幻想を掲げるためではなく、
目の前の変化に誠実であるために。
言葉に寄りかかるのではなく、
複雑さを、そのまま引き受けるために。
もしかすると、
“根本”という言葉そのものが、
一つの仮のよりどころに過ぎないのかもしれません。
けれどそのよりどころを手放したとき、
はじめて少しだけ、
人の身体に近づける。
そんな気がしています。

