いま趣味でバスケットボールをやっています。
仕事終わりに週に何回か千葉市若葉区、習志野市、白井市、八千代市、市川市の中学校へ行くわけです。
そこでも気づきなのですが、若い世代の子たちが「攻める」ということはするけれど「守る」ことをしないのです。
20年ぶりに競技をしているので時代の流れかと思っていたのですが、全ての会場である世代に共通していえることがわかりました。
バスケットボールは団体競技であり、得点するまでに連動性が求められます。
またそこに至るまでに幾度となくコンタクトが生じます。
つまり団体競技でありつつも、ボールが無い場面では個人の動きが求められます。
しかし、全体を見渡すのではなく、個人に走る人が多く、また自分だけが楽しむといったことに違和感を覚えました。
なぜチームの勝利に貢献しないのか。
確かに個人が得点すればチームへの貢献になります。
しかし自分がボールを持たない場面では関係がないという空気があります。
それはなぜでしょうか?
患者さんにそのことについて質問をしたら面白い見解が返ってきました。
「先生、Enjoyは日本では楽しむという訳ですよね?」
「それ、誤った訳だと思うんですよ」
「楽という字を当てはめたから厳しさはEnjoyではないと考えられてしまう」。
この方は大学までラグビー部に所属されていました。
厳しさの中にも優しさがありとても寛容な方です。
例としてオーストラリアなどのラグビー強豪国の考えを教えてくれたのですが、彼らのEnjoyは苦しいこと辛いこともEnjoyなのだと。
そして、故平尾誠二さんの言葉を教えてくれました。
〈日本では、力を注がないで勝つ、結果を出す方がいい、と思いがちですが、力を出さなければ面白くない、Enjoyはないと私は思います。〉リレーインタビュー 第3回 平尾誠二さん(中編)
バスケットをきっかけに世代による考えの違いに気づいたのですが、それらは親や教員による指導が大きいのだと思います。
「ゆとり世代」「さとり世代」だからではなく、親や教員が正しい方向へ導けなかったのではないかと。
マクドナルド本社に勤務するAさんは、新入社員に対して怒ることも叱ることもできないと言います。
それらはコンプライアンス問題となり、ハラスメントになってしまうというのです。
そうすると社会人としての基礎力をつけるのは家庭や学校、アルバイト先でしか得られません。
こういったことは一般的な世界だけにあるわけではなく、スポーツの世界でも共通して言えることです。
元サッカー日本代表監督である岡田武史さんはこのような考えを発信していました(岡田武史さんの考え)。
それは、所属するサッカー選手がランニングをする際に「コーンの内側と外側を走るのでは体力に差が出るか?」と監督に質問した時の話です。
皆さんはどう思いますか?
実際にはそんな差はありません。
しかし、その差で運が掴めるか、掴みそこねるかが決まるといいます。
人生はEnjoyした方が良いですよね。楽をしたいと思います。
人生を楽しむためには酒、煙草、ギャンブルなどは好きなだけやれば良い。
色恋もあります。
これらが充実していると楽しい人生になるかと言ったら違うわけで、日常をどう生きるかは個人次第なのだと思います。
仏教では三毒というそうですが、生涯かけて何を学び気づくかということなのかと考えるのですが、スポーツをしているとそれを実感します。
バスケットボールの試合だと最初は単純に楽しくて、そこから体力的に苦しくなり、音を上げてしまいそうな状況でも耐えて。
チームへの貢献のため、勝利のために自分の苦しみを乗り越えるのです。
楽しさよりも苦しさが勝るのに、広義的には「Enjoy」なわけで、人生そのものだろうと思います。
だから、岡田武史さんがいう事が分かるのです。
病気になったときは気づきの時であり、振り返りの時でもあります。
確かに好きなことをしている人生は楽しい。
けれど人生のEnjoyは目の前にあるわけではなく内側にあることを指すのだと思います。
平尾誠二さんが言います。
〈好きだからこそ高まるモチベーション、自律心に裏付けられた“楽しむ心”を持て〉
アスリートインタビュー|平尾誠二:CramerJapan
これまで病気に罹った人をみてきて、希望を抱く人は精神的な自立をしていました。
鍼灸がある、私がいるということは少なからず支えになったかもしれませんが、どんな状況であろうとも人生を楽しんでいるように見えます。
チャップリンの有名な言葉に「人生は近くで見れば悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ」という言葉がありますが、病気に罹っても元気な人は悲観的ではありません。
そのように視点を変えるだけで違ったものが見えるということを20年かけて学んだ気がします。
人生は楽しいばかりではなく、苦しさも、悲しみも、怒りもありますよね。
それを乗り越えるには理性をもって「ただ生きる」ではなく「より良く生きる」ための工夫が必要なのだと思います。
そう考えると鍼灸はより良く生きるための1つの選択肢であって、鍼灸が何かを与えることはありません。
大切なことは理性をもち自分軸をもって生きること。
そのような気がします。
参考:現在人が「欲望」に振り回される根本原因