黄帝内針(理論篇) |「一、本書の案内と作者」「二、基礎知識」

日本語翻訳:盛 全躍
日本語添削:池澤 肇

目次

一、本書の案内と作者

1.本書の案内

「黄帝内針」は、「黄帝内経」を源流とする道教の針法である。長らく、一子相伝の形で密かに代々に渡って現在まで伝承されてきた。伝承人である杨真海氏によって、初めて世の中に伝えられた。「黄帝内針」は陰と陽から切り離すことができない。この理法は「中庸」にある。したがって、その基本方針は、上或いは下、右或いは左となり、様々な状況に対応できる。「黄帝内針」の「霊枢・九針十二」に述べられているように、覚えやすく、使いやすい。しかも、その効果は所謂「如抜刺、如雪汚、如決閉、如解結」、つまり、棘を抜くように、汚れるものを奇麗に取り除くように、詰まりを通らせるように、絡んだ結びを解けるように分かりやすく、即効性がある。「黄帝内針」は「黄帝内経」から生まれた鍼灸臨床の専門書として日本の鍼灸師の方々の参考になれば幸いである。

2.作者

楊真海:「黄帝内針」の伝承人、本書の伝講者。
劉力紅:「黄帝内針」の伝承弟子、医学博士、本書の整理者。

二、基礎知識

1.陰と陽

陰と陽は森羅万象を網羅し、変化と生死を包含している。男女は陰陽、気血は陰陽、そして左右は陰陽の道、水火は陰陽の兆候である。更に前後、上下、内外も陰陽である。陰と陽はどこにも存在する。陰と陽は相反的なこと、相対的なこと、対立的なことを語っている。宇宙、そして生命を含むあらゆるものは、相反と相対により現れている。男と女が無ければ人は生まれない、雄と雌が無ければ生物は作れない、内と外が無いと器になれない、前と後がなければ、距離が分からない。どんな変化も陰と陽から切り離すことができない、陰陽を把握できれば、変化も把握できるし、更に生死も把握できる。もし、男女、気血、動静、出入、昇降を把握できれば、人類はもっと理想とする方向に発展できるだろう。

2.「三二一」

「三二一」は「黄帝内針」の基本綱領である。その中の「三」の意味は天・地・人、所謂「三才」である。「二」の意味は陰と陽であり、「一」は阿是穴である。

「三二一」の中のもう一つの意味は六経で、所謂三陰と三陽である。張仲景は「傷寒論」で三陰と三陽を基にして六経弁証の理論を提唱した。六経弁証もまた「黄帝内針」の基本理論となっている。

3.三陰と三陽

人体から見ると、三陰と三陽は人体の経絡系統を包含している。つまり、三陰三陽経である。三陰と三陽は手の三陰三陽経と足の三陰三陽経に分けられ、具体的に言うと:

手の三陰経:手太陰肺経、手少陰心経、手厥陰心包経。
手の三陽経:手陽明大腸経、手太陽小腸経、手少陽三焦経。
足の三陰経:足太陰脾経、足少陰腎経、足厥陰肝経。
足の三陽経:足陽明胃経、足太陽膀胱経、足少陽胆経。

天と地から見ると、三陰と三陽は六気のことを言っている。六気は通俗的には:風、寒、暑、湿、燥、火で表される。学術的には風木、寒水、相火、君火、燥金、湿土とも言われる。

具体的に言うと:
三陰:厥陰風木、少陰君火、太陰湿土。
三陽:少陽相火、陽明燥金、太陽寒水。

人体から見ると、三陰と三陽は臓腑と経絡の2つ側面に関連している。臓腑は、生命形態の内核機関である。経絡の作用は少なくても二つあり、一つは生命体の内部と外部の連絡、もう一つは生命体と天地の重要な通路となる。

東洋医学の臓腑は、三焦を除いて、西洋医学においては同様か或いはそれに近い名称を見かけるが、経絡だけは西洋医学の中に対応するものはなかなか見つからない。つまり、経絡は名称としても、内容としても、中医の独自な部分と言えるだろう。

4.三焦

三焦は六腑に属する。六腑の胆、胃、大腸、小腸、膀胱は、解剖学に対応する器官を見つけるが、三焦だけは、解剖学に対応する器官はなかなか見つからない。一体、三焦はどのような腑なのか、そして具体的な形態があるのでしょうか。考える角度を変えて三焦をもう一度見ると、三焦と三才に関連があるようである。三焦は上焦、中焦、下焦に分けられ、上焦が天に、中焦が人に、下焦が地に対応する。即ち上・中・下、天・人・地、となる。所謂三才である。

黄帝内針の選穴原則では三焦或いは三才が重要と成っているので、先ずは人体の三焦の区域から三焦の意義を認識してみることにしよう。

人体の三焦区域:

1)胸と背中の三焦区域
上焦:胸は鳩尾穴以上、背中は至陽穴以上。
中焦:胸は鳩尾穴と神闕穴の間、背中は至陽穴と命門穴の間。
下焦:胸は神闕穴以下、背中は命門穴以下。

2)四肢の三焦区域
上焦:腕と足首
中焦:肘と膝
下焦:肩と股

5.致中和(中庸と平和に到る)

老子が曰く「道生一,一生二,二生三,三生万物。万物負陰抱陽,衝気以為和。」。道は一を生み、一は天となる;一から二が生まれ、二は地となる;二から三が生まれ、三から万物が生まれる。これは老子の考え方である。もう一つの解釈は:一は陽、二は陰、一に二を加えて三となり、三は即陰即陽となり、また、非陰非陽ともなる。三は陰と陽が互いに協和する所謂「合和」の状態になる。陰と陽の相対性、陰と陽の矛盾性は「中」の作用で対立から統一へ、矛盾から調和へと変わり、所謂「平人」状態になる。「素問・平人気象論」に曰く「平人者,不病也。」、または「素問・三部九候論」に曰く「無問其病,以平為期。」。この意味は如何なる病気、風邪であれ、発熱であれ、腫瘍であれ、原則として皆「以平為期」、即ち平人の状態に戻れば病が止むのである。

張仲景が「傷寒論」の第58条で同様なことを述べている「凡病,若吐,若下,若発汗,若亡血,若亡津液,陰陽自和者必自愈」。張仲景がここで明確に示した意味は、どんな病気でも、どんな方法が使われても、陰陽が「合和」になれば、病気は必ず治癒する。黄帝内針も勿論この原則に従い、鍼治療唯一の目的は、陰陽の「合和」を実現することである。「合和」とは何か?なぜ「合和」は重要なことなのか?答えは「合和」の内に「中」があるからである。「中」があれば「平」になれるし、「中」があるから「和」にもなる。「中和」が中医の基本精神である。

6.土徳在中(土徳は五行の中央にある)

土徳はとは何か?土徳を理解する為には五行から学んだ方が分かりやすい。五行とは、木、火、土、金、水で、土は五行の中のただの一要素に過ぎない。五行は陰と陽の現れでもあり、陽は木と火、陰は金と水。木は陽の中の陰、火は陽の中の陽、金は陰の中の陽、水は陰の中の陰。それでは土とは何か?土の位置はどこにあるか?土の位置は、左側に木と火、右側に金と水がある。土は陰にも陽にもなるが、陰でも陽でもない。土は五行の中に現れる陰と陽の調和であり、所謂「中和」である。土徳が五行の中央にあり、土徳は中庸にあり、また中正と平和にもなる。

臓腑の脾と胃は土に属する。「素問・平人気象論」に曰く「平人之常気稟於胃,胃者平人之常気也,人無胃気曰逆,逆者死。」即ち、胃気があれば生になり、胃気がなければ死となる。胃気をこれほど重要視しているのは、胃は生きていくための水と穀物を受け入れる器であるだけではなく、更に重要なのは、土が持っている属性である陰と陽を調和する作用があるからである。黄帝内経の研究と土徳の研究は、中医鍼灸の臨床応用において深い意義がある。

土徳は生命を構成する基礎であり、土徳があれば生となり、土徳がなければ死となる。臨床の角度から見れば、病気になってもそれほど心配することはない、土徳さえあれば、治癒の希望がある。歴代の鍼灸は足陽明経の足三里穴を重視し、「若要安,三里常不乾。」という名言もあった。如何に土徳を維持し、如何に土徳を再建するかは、黄帝内針の秘訣中の秘訣である。現実生活において、不満を持たず、和気の人生態度によって、土徳の維持がより深く、より徹底的なものとなる。したがって、健康は単に医者の課題だけでなく、更に重要なのは自分自身にあると言うことである。この重要なポイントを皆さんは理解して欲しい。

7.同気と同気相求める

同気とは何か?同気とはまず同名同気である。つまり経絡名が同じであれば気も同じと言う意味である。例えば、陽明経では、手の陽明と足の陽明は同じ気となるし。同様に太陰経では、足の太陰と手の太陰も同じ気となる。これが同名経絡の同気原則である。

同気相求めるとは何か?同気相求めるとは、つまり同じ気を求める意味である。「易経」の法理において重要な概念となっている。同気相求める由来は、「周易」乾卦文言の九五では次のように述べている「同声相応,同気相求。水流湿,火就燥,雲従龍,風従虎,聖人作而万物睹。本乎天者親上,本乎地者親下。則各従其類也。」。孔子は同気相求める概念を次のように表現した「方以類聚,物以群分。」また、古来から言われている通り、「同門同気、同志同気」、つまり、同門に属する者が友達になり、志を同じくする者が同志になる。これは典型的な同気相求めることを述べている。同気相求める要は、求められるものに対して必ず反応が来るかどうかである。これが黄帝内針の選穴と刺鍼の不二の原則である。同気を正確に求めれば、反応は必ず来る。同気が正しくなければ、石が海に沈むように何の反応もない。同気と言うのは、病証との同気を求めることで、病証がどこにあるか?三才がどんな位置か?どの経絡(三陰と三陽)に属するか?これを決めれば、治も決まる。治療とは同気を取ることで、病証の存在部位と経絡を見つければ、同じ部位と経絡で治療のツボを取る。したがって、弁証とは気を明らかにすること、施治とは同じ気を求めることである。我々がそれぞれ異なる「同気」に精通すれば、どこでも同気の場所を見つけることができるし、気の求めに応じることができるのである。

8.本と末

枝葉は根から成長する。根は先となり、枝と葉は後になる。したがって、先のものは「本」、後のものは「末」となる。「本」と「末」は先と後で決まる。後は先から生まれるため、先が後を決める。したがって、先を変えれば、後が変わり、先に影響させれば、後に影響を与える。先を治せば、後も必然的に治る。これらは病気の治療で「本」(根源)を追求する理由である。「大学」の巻頭の言葉:「物有本末,事有始終,知所先後,則近道矣」。つまり、根本的な病証を見つけて取り除くため、先ずは現れる病証の先後を知るべきであり、これは治療の近道となる。「内経」が形と気を論じて「気聚」から「有形」への経路を示した。もし、先と後と言う概念をみれば、気は先になり、形は後になる。老子の「道徳経・四十章」に曰く:「天下万物生於有,有生於無」。もし、有無から先と後をみれば、無が先になり、有が後になる。つまり、気が先になり、形が後になる。もし陰と陽から有無を論じるなら、有が陰になり、無が陽になる。もし陰と陽から形と気を論じるなら、気が陽になり、形が陰になる。したがって、陽が陰の先に生まれる結果となる。「傷寒論」16条の「観其脈証,知犯何逆,随証治之」。つまり、重要なポイントは、病証(症)に従って治療するので、決して病名や検査の数値に従って治療するのではない。証は中医診断の眼目であり、治療の場所を決める根拠でもある。証だけが、本当の病気がどこにあるのか、陰と陽がどこにあるのか、病気の「本」がどこにあるのかを教えてくれる。したがって、病気を治療するときには、「本」と「末」を知り、「本、末」を顛倒してはいけない。

9.執両用中(両端を執り、「中」を用いる)

中国文化における中庸の道の思想は非常に顕著である。古くは「尚書」の“大禹謨”の中に“允執厥中”と言う著名な一説がある。この説は、古代の聖王秘伝の心得と見なされており、また統治者の治国綱領とも見なされている。四文字であるが、実際は1文字、つまり「中」だけである。では、この「中」をうまく取るためにはどうすればよいか?「中庸」に曰く:「執其両端,用其中於民,其斯以為舜呼!」。文中の「執其両端,用其中於民」の意味について、私個人の考えは、簡単に言えば、執両用中の言葉に「中庸」の眼目があり、また、黄帝内針の眼目もここにあるのである。この「両」とは、両端の意味であり、実質は左右、上下であり、また陰陽でもある。

具体的には、例えば、病証が左側に現れた場合、それを一方の端と見なすことができ、治療はもう一方の端の右側で行う。これは2つの端を構成している。したがって、左病を右で治療し、右病を左で治療するというのは、両端を持つという原則に従っている。この原則に従うことによって、「中」を使用するという目的が達成できる。

なぜ右の病は左で治療し、左の病は右で治療する必要があるのか?なぜ上の病を下で治療し、下の病は上で治療しなければならないのか?なぜこのような治療方法は「内経」において「善用」と呼ばれるのか?しかし、現在多く行なわれている鍼灸では、左の病は左に刺すのが一般的である。例えば、左肩の痛みでは、ほとんどの鍼灸師は左肩のツボを取る。勿論、左肩のツボを使えないわけではない、ある程度の効果がある。しかし、「内経」の教えでは、「善用」とは言えない。「善用」でない治療方法は効果に影響があり、さらに重要なことは、このような方法は一端しか持たないために、「中」が用いられない。「中」に至らない治療の結果は想像できるだろう。「中」を用いることは、開発と言う意味があるし、「中」が生命に与える影響を示している。針の奥妙はこの言葉に尽きるのである。

10.内針の補と瀉

鍼灸において、ツボの選択とは別に、重要なのは手法(手技)である。手法(手技)の目的は、補と瀉を実現することである。雀沢にせよ、捻転にせよ、「迎随」にしても、すべては補と瀉のためである。所謂「円は補、四角は瀉」は鍼治療における補と瀉の基本原則である。しかし、内針はこれらのことには言及していないようだが、内針は一体どのようにして補と瀉を実現するのか?内針の補と瀉は「中」で実現する。

「中」について、上記の多くの記述の他に加えるならば、「中」は自然であり、天道でもある。「老子・七十七章」に曰く:「天之道,損其有余而補其不足」。即ち、余るものを損することを「瀉」と言い、足りないものを補うことを「補」と言う。天道の補と瀉は、自然なものであり、「中」の役割が働けば、人手を使わなくても補と瀉が自然に行なわれるのである。

この記事を書いた人

〒272-0133
千葉県市川市行徳駅前1-27-20 堀徳ビル301
営業日:月・火・水・金・土・日
営業時間:10時~19時(最終受付)

目次