鍼灸というと、
多くの人はこう考える。
「肩が凝っているから、肩に鍼をする」
間違いではない。
けれど、それだけではない。
例えば、肩こりひとつとっても
私は「肩」だけを見ているわけではない。
それがいつから始まっているのか。
最近なのか、それとももっと前からなのか。
もし話の中で
「昔からかもしれない」という言葉が出てきたとき、その肩こりは単なる疲労ではなくなる。
その人の時間の中に、すでに組み込まれているからだ。
家族との関係。
どんな環境で、どのように人と関わってきたのか。
身体にも触れる。
脈は、その人の「今」を教えてくれる。
弱っているのか、張りつめているのか。
ただの疲労なのか。
それとも、抜けない緊張なのか。
ここで見ているのは
「どこが悪いか」ではない。
その人が、どういう構造で成り立っているか。
もし緊張が抜けないのであれば、
それは単なる身体の問題ではない。
その人にとって緊張は、
必要があって身についた反応かもしれない。
だから私は、すぐに緩めることをしない。
緩める前に、なぜそうなっているのかを見る。
どこで噛み合わなくなったのか。
何がきっかけだったのか。
そのうえで、その人に合った方法を考える。
運動が合う人もいれば、
静かに整えたほうがいい人もいる。
正解は一つではない。
さらに、名前や生まれた時間、環境といった要素も、ひとつの材料として扱う。
人は、単純なラベルでは理解できない。
けれど、今ここにいるという事実には、
何らかの流れがある。
肩こりは、肩だけの問題ではない。
その人の生き方の一部として現れている。
私は、そこに触れている。
幼いころ、私の家には
さまざまな人が出入りしていた。
祖母に会いに来る人。
銀行員。農協の担当者。保険の営業。
立場も目的も違う人たちが、
同じ場所にやってくる。
私は祖母のそばで、
ただそのやり取りを見ていた。
同じように話しているようでいて、
人によって空気がまったく違う。
言葉の選び方、声のトーン、間の取り方。
そして、その奥にある意図や感情。
気づこうとしたのではなく、
気づいてしまった。
その感覚は、大人になるまで続いた。
人の感情の変化や、空気の揺れ。
言葉の裏にあるわずかな違和感。
そういったものが、自然と入ってくる。
それは霊的なものではない。
人が発している、ごく自然な反応や揺れだ。
この感覚は、仕事をするうえでは役に立つ。
けれど同時に、負担でもあった。
見なくてもいいものまで、
見えてしまうからだ。
だから私は、線を引くことを覚えた。
すべてを見るのではなく、
必要な分だけを見る。
鍼灸の仕事を始めた頃、
私は「身体」を対象にしていた。
技術を磨き、結果を出すことに集中していた。
けれど、変化しない人がいる。
その理由が、わからなかった。
そんな時、
オリンピックを目指していた元アスリートの鍼灸師と出会った。
彼女は、ゴール直前で失速する原因がわからず、引退したという。
その話を聞いたとき、
現象は身体だけで起きているわけではないと知った。
そこには、心の揺れがある。
そこから一年半、心理学を学び、
心の構造を見るようになった。
そして気づく。
人は、自分の意識でしか変わらない。
日々の選択や思考が、
その人の状態をつくっている。
食事ひとつをとっても、
そこには感情や背景がある。
それが積み重なり、
身体に現れる。
けれど、それもまた
人生の中の一瞬でしかない。
霊や魂については専門ではない。
ただ、人という存在を見ていると、
それらを完全に切り離すことはできないと感じることがある。
だから私は、
「生き方」に行き着いた。
どう生きるのか。
どう在るのか。
人生の主人公は、自分自身だ。
すべての選択は、自分にある。
そう考えたとき、
施術者と患者という関係に違和感が生まれた。
私は治す人ではない。
気づくための環境を整える人だ。
私は、そのための媒体でしかない。
これまで私は、
こういったことを伝えることも仕事だと思ってきた。
けれど、それは誰もが望むものではなかった。
肩こりが楽になればいい。
疲れが取れればいい。
それで十分な人も多い。
そこに、言葉にならない虚しさを感じたこともある。
けれど、それでも私は見えてしまう。
だから決めた。
すべての人に伝えようとするのはやめようと。
本当に困っている人のために、
この場所を使う。
静かに、自分と向き合いたい人のために。
よりよく生きるための、きっかけとして。
それが、これからの私の時間の使い方だ。

