今回は運の話。
以前、運気が低迷していると感じた時に易でお世話になっている大阪の蒼流庵先生に相談をしたことがありました。
先生からのアドバイスは氏神様へ行くこと。
それで仕事前に立ち寄るようになり、神社で数分間だけ過ごすようになりました。
そして先生から賽銭を入れるときの言葉を教えてもらったのですが、「良いことがあったらラッキー」「嫌なことがあったら不幸」という不純な気持ちが次第に無くなっていきました。
考えてみると自分の外側にはそんなものが存在する理由はないんですよね。
それを感じる自分の中に幸も不幸もあるわけで、それを考える自分は生涯をかけて修行するべきなのだろうと。
木々の揺れや、境内の石碑をみてそんなことを思うのです。
この石に刻まれた名前の人はどんな一生だったのかな?とか。
氏子として村の人々の穏やかな暮らしを祈って寄付してくれたんだろな、とか。
いま、ここに座る私の遥か昔に座っていた人がいて。
その人々は大震災や戦争を経験しているわけです。
そう考えると自分の不安や葛藤には反省しか出てきません。
もっと辛く悲しい思いをした人が沢山いたのだろうと。
あるものがあるはお陰様。ないものがあるは有難い。
ふと、そんなことに気づきました。
家族がいて、健康で、友達がいて、仕事をして、雨風しのげる場所もあって。
無いものを探すときりがないのに、生きてるということと残りの時間はあるわけです。
ただ増えはせず前に進みながら減るわけです。
恩師は「生まれるということは喜びでもあるけど、同時に死へも向かっている」と教えてくれましたが、人生の折り返し地点にきてその意味が理解できるようになりました。
氏神様へ行くようになってから、日々ありがたいなぁ、と思うんです。幸せだなぁと。
花鳥風月とはよくいったもので、本当に花が美しく見えるんですよね。路地裏で見る野良猫、飼い主と犬、木々が揺れる姿に感動したり。
だから今は運に囚われると良くないと反省しています。
あるがまま、ないがままです。
毎日がありがたい。
ただそれだけです。