答えを決めないという選択

鍼灸を学び、
臨床を続ける中で、

ひとつの考え方に、
ずっと違和感を抱いてきました。

「弁証論治」

同じ「証」とされる人でも、
実際の反応はまったく違う。

ひとつの型に当てはめることに、
どこか無理があるように感じていました。

さらに学びを深める中で、

この考え方が、
古来からの不変の原理ではなく、

近代以降に整理された概念であると知ったとき、

その違和感は、
よりはっきりとしたものになりました。

中国という広大な文化圏の中では、

物事を体系化し、
論理的に整理していく流れがあります。

一方で日本は、

多神教的な感覚を持ち、

世界をひとつの原理で
説明しきることに、どこか馴染みにくい。

私自身もまた、

「原因はこれである」と
ひとつに定めることに、

自然ではない感覚を持っていました。

人は、単純ではありません。

身体。
心。
環境。
時間。

それぞれが重なり合い、
その人の状態をつくっています。

それを、
ひとつの原因や分類で説明しようとすることに、

無理があるのではないか。

弁証論治は、

現象を整理し、
理解しやすくしてくれます。

けれどその一方で、

本来の複雑さを、
どこか削ぎ落としてしまう。

そんな側面もあるように感じています。

また、

病名を中心に捉えることにも、
少し距離を置くようになりました。

病名で見るのであれば、

それは西洋医学と、
構造としては同じになります。

もちろん、

西洋医学には大切な役割があります。

けれど、

鍼灸が同じ視点に立つ必要は、
必ずしもない。

むしろ、

病名に意識が向きすぎることで、

目の前にいる「人」そのものが、
見えにくくなることもあります。

22年。

その違和感を抱えたまま、
ここまで続けてきました。

ただ、

こうした考え方もまた、

専門教育や、共通認識を持つためには、
必要だったのだと思います。

同じ言葉で理解し、
同じ方向を向くための枠組み。

その役割は、確かにある。

けれど、

答えをひとつに導くことが、
「正しさ」とされる在り方。

その構造は、

どこかで、
いまの社会にある不調和と、
つながっているようにも感じています。

本来、

人も、世界も、

ひとつに収まるものではないはずです。

無理に整えようとするとき、

そこに歪みが生まれる。

だからこそ私は、

あえて、

日本人として。

東洋人として。

主観的であること。

心情的であること。

個人的であること。

そういった、

揺らぎのあるものを、
大切にしていたいと思っています。

そして今は、

病気を、
ひとつの原因としてではなく、

いくつもの要因が重なった、
ひとつの現れとして見ています。

無理に分類せず、

目の前で起きていることを、
そのまま受け取る。

何が正しいのかは、
いまだに分かりません。

けれど、

決めつけることなく、

身体と心の揺らぎに、
向き合い続けていきたい。

見えているものだけでなく、

言葉にならないもの。

まだ見えていないもの。

そこにも、
静かに目を向けていく。

その在り方の中に、

いまの自分なりの鍼灸が、
あるように思っています。

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