ある先生が、こんなことを書いていました。
治療家がBodyではなくMindやSpiritに偏ってしまう現象には、個人の心理と業界の構造が深く関わっている。
確かに、そうした側面はあるのかもしれません。
Bodyの世界は、誤魔化しがききません。
触れれば反応があり、動かせば変化が出る。
結果は、ある意味とても具体的です。
一方で、MindやSpiritの領域は抽象度が高い。
言葉や物語、雰囲気によって成立する部分もある。
そこには救われる人もいるでしょうし、慰められる人もいる。
けれど同時に、抽象的な言葉は逃げ道にもなり得ます。
「心が原因です」
「エネルギーが乱れています」
「潜在意識がブロックしています」
こうした言葉が、説明ではなく“回避”として使われてしまうことも、確かにあるのだと思います。
しかし、Bodyだけで十分なのか
ただ、私はこうも感じています。
筋肉や関節の構造を理解しているだけでは、変化しない症例がある。
理論的に説明できても、現実が動かないことがある。
そのとき、単純に「Mindに偏るな」と言えるほど、現場は単純ではありません。
病気は、本当に一つの原因で生じているのでしょうか。
一つの課題をクリアすれば、すべて解決するのでしょうか。
実際には、そうならないからこそ、多くの人が総合診療科を受診し、
それでもなお答えが出ず、最後には祈りに向かうこともある。
科学が発展しても、
見えないものは見えないままであり、
見えているようで、実は分かっていないこともある。
「わかる」と断言することのほうが、むしろ危ういのかもしれません。
東洋思想の寛容さ
以前、ある作家が
「東洋思想は生きた思想である」
と書いていました。
東洋思想は固定的な答えを持つというよりも、
常に変化し続ける前提に立っています。
正しい/間違っている
科学/非科学
身体/心
どちらかを切り捨てるのではなく、
その時々に応じて揺れ動く。
その“揺らぎ”を許容するところに、私は可能性を感じています。
科学を否定する必要はない。
しかし、科学だけで世界が完結しているとも思わない。
経絡や臓腑、気や血という枠組みも、
万能の説明装置ではありません。
だからこそ、柔軟であり続ける。
分からないものを、分からないまま保留する。
曖昧さは、逃げではない
外から見れば、
それは曖昧で、はっきりしない態度に見えるかもしれません。
けれど、すぐに断言しないこと。
簡単に原因を一つに決めないこと。
物語で包み込んで終わらせないこと。
それは、誠実さの一つの形でもあると思っています。
私たちは、抽象的な言葉や優しい物語に酔うことを目的にはしていません。
同時に、身体だけを絶対視することもしません。
分からないことは、分からない。
だから問い続ける。
その姿勢の中にこそ、
治療という営みの静かな核心があると感じています。

