ある日の話。
無分流打鍼の資料と動画を読み返していました。
これまで、解剖学、経絡、中医学を学んできましたが、どれもしっくりしませんでした。
部分的であり全体を見ず、さらに部分を細分化しての道具や技術の選択に違和感があったのです。
それらが意識的な選択なのか、無意識的な選択なのかを考えるなか中で、結局のところは自分自身のあり方なのだろうと思うようになりました。
自分にとっての東洋医学は扶正去邪ではなく邪正一如の考えであったのに、全体を見渡すと排他的な思想に考えを落としがちなのです。
そんなことを考えていたら、不思議な縁がありました。
友人の紹介で高野山のお坊さんに出会ったのです。
そのお坊さんから教えていただいたことは「烏が青いと信じている宗派もいれば、赤いと信じる宗派もある」と言うのです。
そして「それを信じるのは縦の教えだから仕方ない」と。
日常で目にする他人への口撃、政治的なニュース、互いの主義主張に対して同調してしまう理由は個々にあるにせよ、人々はなぜ穏やかにいられないのか。
そしてなぜ閉鎖的な考えに及ぶのか。
それは、自分が信じているものを縦でみてしまうから。
私は物事は俯瞰してみる方が良いと思うのですが、何よりも日本人にとっての生命観について振り返るべきかもしれません。
そもそも約一万年続いた縄文時代と弥生時代は何が異なるのか。
そんなこと考えたことも無かったのですが、無分流打鍼継承会の齋藤先生とのやり取りの中で日本伝統医学の根幹について教えていただきました。
日本人にとっての医とは何か。
この部分がとても大切な気がするのです。
以前、医師の稲葉俊郎さんの対談を聞きに行った際、「アーユルベーダはインド医学、中医学は中国だけど、日本医学はない」と言う話を聞きました。
しかし、このように続きます。
「ただ私は芸道が日本医学だと思うんです」と。
その話がとても印象的だったのですが、日本人にとっての医とは、華道、茶道、香道であったり、能楽であり、姿勢をさすのだろうと。
そして、その中心は肚なのだと思いました。
重要なのでもう一度書いておきますが、肚だと思うのです。
ここからはこじつけですが、仮に縄文時代に太鼓を叩き、大地を踏みしめて踊り、火で神々への祈りを捧げる。
これが日本人にとっての生命観における医になのかもしれません。
鍼と灸という道具を扱う者の思想や哲学は少なからず影響するものです。
私達は日本人であり、根幹にあるものは生命観や自然観だと思うのです。
ですから目に見える文字や価値観で優劣をつけるのではなく、その考えから離れることでより良い形での東洋医学になるのではないでしょうか。
ツボ、経絡、臓腑が、理屈が病気を治すのではなく、生き方がとても大事なように思います。