『宇多田ヒカル「SCIENCE FICTION」interview』の映像を知っていますか?
冒頭から3分間の内容を観ていると考えさせられることが沢山あります。
今日はその話に『鍼灸の挑戦|松田博公|岩波書店』の話を加えた内容を書いていきたいと思います。
この本の中で井上雅文先生が〈脈診はうそではない、事実でもない。何かというとフィクションなんですよ〉という言葉を記しているのですが、それがとても印象的です。
なぜなら、それは重要な方法の1つなのにフィクション(仮構、虚構)と言っているからです。
そして、〈ただ、脈診や鍼灸は科学的真実はどうかはさておき、それに従って施術をおこなうといい結果に導かれる作り話というような概念〉だと続きます。
そして、井上先生は日々先人が構築したこの作り話の有効性を確認していると。
今回、どうして「脈診」と「SCIENCE FICTION」を併せた話を紹介したかったのかというと、宇多田ヒカルさんの言葉が重なったからでした。
〈形ないものは存在しない、危ういと考えるものの、形あるものですら本当に存在しているのか、その真実とするものも主観的であって不確か〉
〈何が事実で何が事実じゃないのか〉
上手く説明できないのですが、病める人をみていると現実と虚構か分からなくなることがあります。
ただ、本人は本当に悩み苦しんでいるわけです。
それを存在しないから信じない、存在するから信じるというわけではなく、意識や想像も存在するわけですから、それは施術の対象となるわけです。
私は日常の“普遍性”に対して“違和感”があり、すべては不確かなものだと思っています。
そして、それがフィクションなのかノンフィクションなのかで判断するのではなく、信じるか、信じないかなのだろうという答えにいきつきました。
なぜなら自分を信じていないということは存在しないようなものだから。
ですから私は自分自身のこれまでの経験や学びを信じていますし、いま足らない部分においては時間をかけて習得したいと考えています。
この不確かな不完全な状態であるからこそ、目の前の人が抱える見えないものへも向き合えると思っているのです。
形ないものと形あるもののどちらを信じるか
