「わかる」ということは「わからない」

数年前から易を学んでいます。

思うように学ぶ時間を作ることができなくて、先生に申し訳ない気持ちを抱いているのですが、鍼灸の恩師との会話の中で気づきがありました。

私は固定概念や解釈というものに時折アレルギーがでます。

例えば「鍼は痛い」「東洋医学は科学ではない」「〇〇は正しい」といったものが分かりやすいです。

自分においては「時間を作ることができず申し訳ない」という気持ちに対して。

だから「勉強することを諦めよう」という判断をしてしまうのですが、それを易で考えてみるとこのような見え方ができます。

ものごとは変化し変わる。

変わらないということは変わらない。

そして変化は易しく、従いやすい

どうしても答えを導きたくなるのですが、その答えが出た時にはすでに答えは答えではなくなる。

最近、昼過ぎに空をみたことはありますか?

月は夜に出るものだと思っているのに昼頃には出ているわけです。

朝は明るいと思っているのに、夏と比べれば5時、6時は空が暗い。

日々、変化している。

変化するということは変わらない。

ですから1つのことを分かったと思いこんでしまうというのは時に苦しさを生むわけです。

私に関していえば、落ち着いたらまた学べば良いだけなのに様々な解釈が加わる。

空でいえば天気も変化するし、地でいえば季節が移り変わるのに、人だけ変化しないということはありえませんよね。

天気に左右され、季節にも影響を受ける。

バイオリズムもあって、ホルモンの変化、加齢もある。

さらには社会に身をおいていて、他人との関わり合いがあるのですから、昨日と同じ時間を過ごすということはありません。

だから「わかった」ということは「わからない」なのではないでしょうか。

そして、「わかった」という気づきは日々変化して、「わからない」ということも日々変化する。

ただ、それだけのような気がします。

最後に。

ものごとは「ある」と「ない」だけではありません。

それだけで判断すると辛いことも、悲しいことも、嬉しいことも、どこかに偏りが生まれてしまうから、楽しい気持ちを真ん中にもってくると良いでしょう。

そういった真ん中が道しるべになるのでしょう。

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