人は、ある日突然壊れるわけではない。
気づいたときには、うまくいかなくなっている。
身体がつらい。
思考がまとまらない。
何かがおかしい。
けれど、その始まりはもっと静かなものだ。
最初は、ほんのわずかな違和感。
小さな引っかかりのようなもの。
本当はやりたくない。
どこか納得していない。
でも、言葉にするほどではない。
その程度のものだから、多くの場合は無視される。
「気のせい」
「こんなものだろう」
そうやって流されていく。
けれど、人は環境の中で生きている。
家族。学校。社会。
その中で求められる役割や、期待に応えようとする中で、
少しずつ自分を調整していく。
本来の感覚よりも、
周囲にとって都合のいい形を選ぶ。
そのほうが、うまくいくからだ。
ここで、最初のズレが生まれる。
ただ、この段階ではまだ問題にならない。
むしろ、適応しているように見える。
周囲とも衝突せず、
社会の中でうまくやっているように見える。
やがて、その状態が続くと
ひとつの基準ができる。
「こうあるべき」
「普通はこうする」
その基準は、最初は外から来たものだ。
けれど、繰り返すうちに
それが自分の中の「正しさ」になる。
ここが厄介なところだ。
ズレているにも関わらず、
本人にとってはそれが正しい状態になる。
違和感は、最初の段階でしか現れない。
それを過ぎると、人は慣れてしまう。
そして、そのズレは身体に現れる。
緊張が抜けない。
疲れが取れない。
理由のわからない不調。
ここで初めて、多くの人が足を止める。
けれど、そのときにはすでに
「原因」は見えなくなっている。
なぜなら、その人の中では
その状態が“普通”になっているからだ。
ズレていることに、気づけない。
人は、壊れてから来るのではない。
ズレ続けた結果として、現れる。
だからこそ、表面的な対処だけでは足りない。
一時的に緩めることはできても、
また同じ状態に戻ってしまう。
必要なのは、どこでズレたのかを知ること。
そして、本来の感覚に触れ直すこと。
けれど、それは簡単なことではない。
なぜなら、人は
「正しい」と思っているものを手放せないから。
正しさは、ときに人を守る。
同時に、人を縛る。
だから私は、無理に変えようとはしない。
ただ、その人の中にある違和感を
もう一度、静かにすくい上げる。
最初にあったはずの、小さな感覚。
見過ごされてきた、わずかなズレ。
そこに触れたとき、
人は自分で気づく。
どう在りたいのか。
どこに戻りたいのか。
そのきっかけをつくること。
それが、いま私がやっていることだ。

