ある時、父に商売の話をした時の話です。
私の住むところは地元の人が多く住む場所でほとんどの人が農家と漁師でした。
戦後、農家や漁師をやめた人たちは商売をはじめたのですが、代々商いをする人たちと比べて愛想が悪い。
しかし、それは意図的なものではなく、商売とは何かと言いう事を知らないわけです。
一方で酒屋さんや米屋さんは子供の頃から親の背中を見ているから愛想がよい。
地元で飲食店をひらく人は人気があるのに商売っ気がなく、混んでも混まなくても構わないという感じです。
そんな土地で生まれ育って、鍼灸院を経営するとなるとどうなるか。
それこそ「商売に愛想は必要だ」と思うことはなく、結果というものにこだわってしまいます。
もちろん不愉快にさせることはありませんが、心にもないことや余計なことを言うこともありません。
思ってもいないことを喜んでもらうために言うというのは何か気持ち悪いのです。
しかし、鍼灸の勉強会にいくと必ずいる太鼓持ちやゴマすり。
そんなことをしても治療技術が上がるわけでもありません。
けれど出世欲や利益の追求となると、商品だけではなく自分も売らなければなりませんから、誇大広告を打つようになります。
でも鍼灸の商品は技術ですから、愛想を振りまいても良くはならないですし、有名な先生に付いて勉強しても、弟子入りしても、再現性自体が上がるわけではありません。
ホームページには独自の理論、独自のメソッドという謳う整骨院や整体院、カイロプラクティックや鍼灸院がありますが、こういったことが背景にあります。
銀座で歴代総理が通っていた天婦羅店だろうと、文豪がこよなく愛した洋食だろうと、世界的なアーティストが愛した軽井沢のパンだろうと美味しくなければ単なる街の名物です。
鍼灸師や整体師などのセラピストは100人いれば100通りの方法があり、何が正しいかは正直分からないのですが「芸は人なり」という考えがあるように、そういった気の合う合わないは100通りありますから、有名な先生ではなく初学者の学生が合うこともあり得るわけです。
そう考えると私は商売っ気というものを前面に出すより、朴訥と真面目に真剣に相手のことを考えて仕事をしていたいと思います。
「商売っ気」というもの
