年が明けて、
しばらく時間が経った。
その間、
ひとつのことを考え続けている。
これからの数年で、
自分がやりたかった形に、
少しずつ近づけていくこと。
そのために、
鍼灸院としての在り方も、
見直し始めている。
これまで書いてきたように、
日本の医療の枠組みの中では、
鍼灸を本来の形で行うことは難しい。
多くは、
対症療法として扱われている。
本来は全体を診るはずのものが、
いつの間にか、
部分に対するサービスになっている。
理由は単純で、
その方が分かりやすいからだ。
症状に対して、
何をするのか。
その構造は、
効率的で、標準化しやすい。
一方で、
全体を診るということは、
時間がかかる。
同じように見えても、
同じではないからだ。
背景も、経過も、
すべてが異なっている。
どちらが正しいか、
という話ではない。
部分には部分の強さがあり、
全体には全体の視点がある。
ただ、
どちらかに偏ると、
見えなくなるものが出てくる。
医療は細分化され、
専門ごとに分かれていく。
分からなければ、
別の場所へと回される。
その中で、
全体を引き受ける視点は、
置き去りになりやすい。
けれど身体は、
分けて存在しているわけではない。
同じ「肩こり」でも、
すぐに変わるものと、
変わらないものがある。
その違いは、
単純な理論だけでは説明がつかない。
だからこそ、
一つの方法や、
一つの正しさに寄りかかると、
そこで止まってしまう。
「根本治療」という言葉も、
ときに曖昧なまま使われる。
根本とは何か。
それは本来、
簡単に言い切れるものではない。
社会は、
効率や合理性によって動いている。
それは必要なものだが、
その基準がそのまま、
身体の回復に当てはまるとは限らない。
身体は、
標準化されない。
回復は、
即効性だけでは測れない。
外側の論理と、
内側の変化は、
必ずしも一致しない。
だから私は、
部分でもなく、
抽象的な全体でもなく、
その人の中にある構造を、
見ていきたいと思っている。
それは新しいものではなく、
これまでの中で、
すでに繰り返してきたことでもある。
ただ、
それをそのまま当てはめることはできない。
同じように見えても、
同じにはならない。
その前提に立つことから、
ようやく始まるものがある。
変化は、
一度で完結するものではない。
時間の中で、
少しずつ方向が整っていく。
だからこれからは、
効率ではなく、
誠実さのほうを選びたいと思う。
構造は、
言葉よりも先にある。
それをどう扱うかで、
見えるものは変わっていく。

