年が明けて、早くも一か月が過ぎました。
さて、昨年末から考えていることがあります。
そんなことを考えてすでに1か月と2週間。
それは、今年から3年かけて、自分が本当にやりたかったものを形にするというもの。
そのために、鍼灸院としての取り組みを変えていく計画を立てています。
これまでブログで何度も書いてきましたが、日本の医療システムの枠組みに沿ったままでは、鍼灸を本来の形で行うことは難しいと感じています。
なぜなら、日本でおこなわれている鍼灸の多くが、「対症療法」になっているからです。
本来、鍼灸は〈全体〉を診る医学です。
しかし実際には、どの鍼灸院のホームページには症状名が並びます。
その理由は明確です。
ほとんどの人が「地域名+症状名」で検索するからです。
そのために「肩こり」「腰痛」「膝痛」といったものに対して対症療法がおこなわれます。
おおざっぱな言い方にはなりますが、本来の東洋医学、日本人に合った鍼灸といったものは実際にはおこなわれていません。
本来は全体を整える医学が、いつの間にか部分(現象)に対するサービスへと変わっているのです。
そして「根本治療」という言葉だけが独り歩きするようになったのです。
では、なぜ対症療法が主流になるのか。
それは、部分を診る方が効率的だからです。
全体を診ることは、生産性が低い。
量産できない。
標準化しづらい。
ですからコンサルタントは、ターゲットを絞らせ、売りが何かを問います。
そのせいで同じものが増え続け、
整骨院や歯科医院はコンビニエンス化されていきます。
町でみる整骨院の「交通事故対応」「歯のホワイトニング」「骨盤矯正」といったのぼりもその1つでしょう。
ただ、近代化された社会では、その効率化は正しさです。
その中で、全体性は後回しにされます。
しかし、部分だけを診ることで見落としも生まれます。
ある人は、手のしびれで整形外科を受診し、首だけを検査されていました。
実際には小円筋に問題があったにも関わらず、既往歴や生活背景が確認されていなかったため、辿り着けなかった。
妊婦さんの腎盂炎が、腰痛として見逃されていたこともあります。
これは、西洋文化などの西洋医学が悪いという話ではありません。
部分だけを診ることにも限界があり、
同時に「全体だけを診ることにも盲点がある」ということです。
本来必要なのは、ミクロとマクロの両方の視点なのに。
けれど現実は、専門科に分かれ、分からなければ別の科を紹介される。
たらい回しの中で、誰も全体を引き受けない。
これは医療者の能力の問題というよりも、
教育と制度の構造の問題です。
鍼灸学校においても東洋医学としての鍼灸は難しいから、
西洋医学に基づいた鍼灸を学びたいという学生が多くいます。
そしてそれは中医学においても例外ではありません。
現代中医学の誕生と変遷を読めば分かることです。
つまり、「東洋医学だから対症療法ではない」とは言い切れないのです。
例えば、肩こり。
肩に鍼をして灸をすれば楽になる。
けれど数日後にまた凝る。
ある鍼灸師は言います。
「そのやり方ではダメだ」
医師は言います。
「鍼灸だからダメだ」
では何が正しいのか。
整形外科で薬を大量にもらっても治らない。
「気長に治療しなさい」と言われる。
その間にも医療費は増え続けるわけで、果たしてこれは治療なのか。
友人が働く整形外科では医師が「鍼灸は対症療法だ」と言いながら、
患者の顧客満足度を上げる為、患者確保のためにマッサージを導入し、
マッサージ師、柔整師、整体師が手技をおこないます。
そして、売上調整のためにリハビリをおこなわせるのです。
部分を診るから生産性が高い。
量産できる。
標準化している。
近代化された社会では効率は正しさなのに、
その中で後回しにされたものは本来の正しさ。
そういった社会における、正しさ、合理性、生産性、権威性、即効性、安心感、標準化。
それらは社会を円滑に動かすための基準であって、
人間そのものの真実とは限りません。
それらが「間違っている」と言いませんが、
それが「本来の正しさ」だと信じ込んだ瞬間に、
私たちは身体の声を聞き逃していくのでしょう。
身体は標準化されない。
回復は即効性だけでは測れない。
安心感は権威によって与えられるものではなく、
関係性の中で育まれるものです。
社会の論理は、外側を整える。
しかし身体の論理は内側から変わる。
だから私は、
社会が定めた正しさに従うのではなく、
その人固有の構造にとっての正しさを探したいと思うのです。
なぜなら真理は変わらないから。
つまり、自然はあっても。不自然はないのです。
そして、施術者には自己顕示欲や承認欲求がある。
患者には権威性への依存がある。
「有名な先生」「神の手」「予約が取れない」
そうした言葉が安心や優越感を生み、
冷静な判断を鈍らせています。
これまで12年、鍼灸院を経営してきて感じるのは、
東洋医学は患者主体の医療だということ。
けれど西洋医学の価値観に慣れたまま受けると、
「1回で治るはず」という幻想が生まれます。
つまり、鎮痛や弛緩の即効性を「完治」と誤解してしまう。
これは社会における時間の流れが加速しているからでしょう。
けれどどんない高速化しようと身体はアナログです。
鍼を1本刺しただけで劇的に変わる、という発想はどこか不自然だと思いませんか?
だから私は「1回だけ」の施術はおこないません。
不自然な価値観を共有することはできないのです。
継続して施術をおこなうことは、利益のためではありません。
医療は本来、施術者と患者が対等であるべきだと考えているからです。
ですから「1回で治して欲しい」「痛くなったら診て欲しい」という医療主体の人を診ることを辞めました。
これからは主体的に自分の身体と向き合う人を診たいのです。
そして私は今、
〈部分〉ではなく〈全体〉をみるために、
「構造」をみる取り組みを始めようとしています。
それは新しい理論ではありません。
振り返れば、この22年間、無意識におこなってきたことです。
けれど、それが誰にでも当てはまるわけではないと気づきました。
肩こり1つとっても、
簡単に改善するものと、何をしても変わらないものがあります。
果たしてそれは何故でしょうか。
その理由を知っているから「私は治せる」という傲慢さはありません。
ただ、理論が一致するからといって治らないことを知っています。
そして、ある一定の弱者に対して私たちは神格化しやすい。
それらを専門的におこなう施術者を否定するわけではありませんが、
ただ1つの理論や手法にこだわるということはとても短絡的なものだと思うのです。
「肩凝りにはこのツボ」
「経絡の本治と標治をすれば・・・」
「弁証論治では・・・」
「瘀血は汚い血です」
そういった1つの物事に対して1つの答えしかないようなものは、
自然界においては不自然であり、これらの方法によって解決するほどの問題は誰がやっても
一定の結果が出ます。
ですから、私はそれらを整理し、位置づけ、全体の構造を捉えることが、
自分の強みであり、本当にやりたい医療の形だと考えています。
だから私は、
「根本治療」という言葉に安易に寄りかかりません。
根本という言葉は、ときに施術者の欲望を隠す便利な言葉にもなり得ます。
部分でもなく、
全体という抽象でもなく、
その人固有の構造を把握すること。
そこからしか、本当の変化は始まらないのです。
これから3年をかけて名前や形にこだわらない、
時間としての医療、空間としての医療、人間ができる医療をおこなっていきたいと思います。
これは特別なものではなく。動物がもつ本能です。
だから私は子供であろうと老人であろうと、言語が異なろうとも施術ができます。
構造は、言葉よりも先に存在しているからです。
私は効率の医療ではなく、誠実な医療をこれから選びます。

