車を運転していた時のこと。
左折の際、事故を起こしそうになりました。
交通量の多い道路。
後方の車との距離、歩行者の位置、自転車の動き。
すべてを把握しながらハンドルを切った瞬間、
歩道を逆走する自転車が現れ、
さらに後方から走ってきた自転車が、
点滅している信号を渡ろうとして車列の中に入り込もうとしました。
ほんの一瞬の出来事でした。
注意していなかったわけではありません。
むしろ、かなり注意していました。
それでも、危うかったのです。
後日、その話を整備士の患者さんにしました。
彼はこう言いました。
どんなに自動運転システムが進化しても、
人間側の危機意識や状況把握力が低下していれば、
事故削減を最大化することはできない。
むしろ、自動運転特有の新たな事故が生まれる可能性すらある、と。
なるほど、と思いました。
生活は便利になりました。
技術は進歩しました。
安全装置は増えました。
しかし同時に、
・技術への依存
・情報過多による脳の負担増大
・慢性的な注意力の分散
・危機感受性の鈍化
が進んでいます。
見えているのに、意味づけできない。
異変が起きているのに、重要性を判断できない。
これを認知エラーといいます。
それは怠慢ではなく、
構造的な問題です。
私は、この構造は病気に対する認知にも
そのまま当てはまると感じています。
ある人が、自分の病気が治らないことに対して、
怒りをぶつけてきました。
けれど冷静に考えれば、
発症までの時間の中に、
いくつもの小さなサインがあったはずです。
しかし人は、
「自分は大丈夫」
という予断を持ちます。
そして発症後に、初めて異変を異変として認識する。
これは決して珍しいことではありません。
その怒りの奥には、
予測不能への恐怖
自己否定の回避
後悔の痛み
があるのでしょう。
けれど構造として見れば、
それもまた、認知・注意・判断の低下の問題です。
人間は人間であって、機械ではありません。
通信機器の速度で生きているわけでもありません。
それなのに私たちは、
いつの間にか過度な自信を手に入れてしまいました。
科学は進歩し、
医療は発達し、
100年生きることも可能になりました。
しかし同時に、
個体としての生きる力は
むしろ低下しているのではないか。
そう感じることがあります。
技術が生かす社会。
けれど、
自ら異変に気づき、
調整し、
回復していく力はどうでしょうか。
危機感受性が鈍れば、発見は遅れます。
注意力が散漫になれば、予兆は見落とされます。
余白がなければ、小さな違和感は拾えません。
事故も病気も、
突然起きているように見えて、
実は長い時間の中で準備されています。
問題は、責めることではない。
必要なのは、
認知の感度を取り戻すこと。
生きる力を、回復させること。
鍼灸を受けるということの意味は、
単に不調を治すことに限らないと私は思っています。
それは、
日常に余白を生むということ。
身体に余白ができると、呼吸が変わる。
呼吸が変わると、注意の質が変わる。
注意が変わると、異変への感受性が戻ってくる。
人は目的がなければ動きません。
病気だから治す。
痛いから通う。
それも一つの自然な動機です。
けれど、
健康であるために整える。
鈍らないために余白を持つ。
そんな選択があっても良いのではないでしょうか。
健康とは、壊れていない状態ではなく、
変化に気づける状態なのだと思います。

