「海を知ろうとするは賢者だが、海を語るは馬鹿である」
この言葉が、ずっと頭に残っている。
海は広く、深く、
同じ姿をとどめない。
近づけば色が変わり、
天候によって表情が変わり、
見る場所によってまったく別の海になる。
それを「分かった」と言えるだろうか。
語った瞬間、
それはもう、自分の理解の範囲の海でしかなくなる。
だから本当に海を知ろうとする人は、
簡単に語らない。
私は医師ではない。
占い師でもない。
だから診断はしないし、断言もしない。
それは資格の問題ではなく、
「分かる」ということの曖昧さを知っているからだ。
身体もまた、海のようなものだと思っている。
一度の評価で決めつけられるものではない。
痛みも、感情も、背景も、
時間の中で揺れ続けている。
「原因はこれです」
「あなたはこうです」
そう言い切ることは、
ときに安心を与えるかもしれない。
けれど同時に、
可能性を閉じてしまうこともある。
私がしているのは、
治すことでも、正すことでもない。
仮説を立て、
触れ、観察し、
反応を見て修正する。
その純度を、少しずつ上げていく。
ただその繰り返しだ。
わかる、という言葉には
どこか過信や驕りが含まれている。
だから私は、
「分かる側」に立つことをやめた。
私はあなたを語らない。
ただ、あなたが真剣であるなら、
私はあなたを知ろうとする。
海を語るのではなく、
海に触れ続けるように。
その営みの中にしか、
本当の変化は生まれないと思っている。

